彼女のすぐそばに、トグサの顔はあった。
けれど、トグサはそれ以上近付こうとしない。何かに阻まれるかのように、顔を寄せられないでいる。切なそうに、トグサは顔を背けた。
「トグサくん……」
「すまない」
苦しそうな声。闇に落ちそうなほど暗く狭い路地に、トグサの言葉が静かに消える。
「やっぱり……、かみさんを裏切れない」
その言葉は、けれど彼女には判っていた。
だから指は無意識にためらい、すぐそばに立つトグサに触れることができない。
彼の妻を想う深さを知っていたから。
唇を噛みしめながら、彼女は頷く。
「いいの。……いいの、判ってる」
「高萩……」
彼女の肩に手をかけようかとトグサは思うが、―――できなかった。
こざっぱりと着飾った彼女は、立ち尽くしていた。薄闇の中、その目に涙が溢れていることは、義体化していなくとも判る。
彼女の想いに、ぎりぎりになって応えられない自分を、トグサは責めた。
(デートに誘っておきながら、自分の気持ちを整理できないおれが悪いんだ)
簡単に騙される彼女をわざとらしくこんな路地に迷いこませて……この始末。
どうしても、妻の悲しむ顔が消えてくれなかった。
「わたしは……、そんなトグサくんだから好きなの。そういうトグサくんだから、好きになったの」
「高萩……」
「これでよかったんだよ。わたしは、今日、来ちゃいけなかった」
彼女の声は気丈だったが、涙に濡れていた。
「トグサくんのこと、ものすごく、ものすごく好き。でももしもそういうことになったら、トグサくん、すごく苦しんじゃう。……そんなの、わたしイヤだ」
「おまえを、こんなにも苦しめてるのに……?」
彼女は首を振る。
「トグサくんにそう想ってもらえるだけで、充分だから」
トグサは思わず彼女を抱き寄せた。柔らかな髪が頬に触れた。初めて抱きしめた。こんなにも小さかったのか。
胸の中で、彼女は頑なだった。だめと小さく声が聞こえた。
「何が」
トグサは彼女を抱く腕に力を込めた。
「何がだめなんだ。おれが愛しているのは、そうさ、かみさんだ。でもいまは、―――いまおまえに必要なのは、おれの腕なんじゃないのか?」
一瞬の驚きの後、彼女の身体から力が抜けていくのが伝わってくる。
「……判った。わたしは、いま、猫なの。道に迷って、心細くなって、めいめい鳴いてる仔猫なの」
「―――おまえらしい発言だ」
おかしげにトグサ。けれどその声はあたたかく、彼女の髪を撫ぜる手は愛しげだった。
「ごめんな」
仔猫は首を振る。
「もっと早く、かみさんよりも先におまえと出逢えてたら……」
「それでもトグサくんは、やっぱり奥さんと一緒になるよ」
「……」
「トグサくんと奥さんは、そういうふうだから」
「……」
「―――ありがと」
彼女はそっと、両手でトグサの胸を押した。こちらを見上げる目は、まだ濡れている。けれど懸命に笑みを作っていた。
今度こそ自然に、トグサは顔を寄せることができた。
しかし―――顔を背けたのは彼女のほうだった。
その頬に手をやり、向き直らせる。
彼女は再び顔をそらす。
小さな両頬に手を添え、トグサは彼女を見つめた。彼女は、目を合わそうとしない。
「ありがとう。もう、行く、から」
「高萩」
「奥さんを裏切れないって言ったトグサくん、すごくかっこよかった」
目をそらしたまま、彼女はトグサの手を外し、ゆっくり離れた。
「そういうトグサくんが、大好き。じゃあ、ね」
「高萩」
彼女は路地を歩き出す。後姿が名残惜しそうに見えるのは気のせいか。
路地の先で、彼女は足を止めた。
そして振り返る。悲しげな顔をして。
トグサははっと胸をつかれた。
「結婚なんかしてて、トグサくんのばか。どうして結婚なんかしてたのよ」
ほとばしったのは、彼女の本音だった。
ふたりは求めるように見つめあい、そして彼女は路地の向こうに、姿を消した。
トグサは追いかけなかった。追いかけられなかった。
どうにもならなかった―――。
力任せに、トグサは壁に拳を打ち込んだ。
重い衝撃が走り、破れた皮膚から血が流れ落ちる。
けれど痛みは、感じなかった。
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