壊れゆく月
〜blood+〜

 
    
『あの約束はまだ有効ですか…?』

<0>
彼女のまぶたが重そうにまばたく。
しばし眠気に逆らって…かすかな声で言葉を紡いだ。
…私の名前を。
それは恍惚に近い悦びを私にもたらす。

「すべてがおわったら…」

途切れ途切れに囁かれるその言葉を、声をわずかでも聞き漏らさないように私は耳を傾けた。
深く身をかがみ、彼女に近づいて。
「ええ」
わかっています。
私は彼女に答える。
彼女の意識は既に朦朧としているはずだ。
けれど、彼女は安堵の笑みを浮かべ、瞳を閉じた。

呼吸が浅くなる。
やがて呼吸をしていることすら分らないほど、間遠になるのだろう。
今はまだ残るこの熱が、完全に冷めてしまう頃には…。


……サヤ。
長い眠りにつき始めた彼女の名前を、そっと呟いた。

お休みなさい。よい夢を。


最後まで発せられなかった言葉を、ハジは心の中で反芻する。
顕わにならなくとも、彼女が何を言いたかったのかはよくわかっていた。


『ハジ…いつかすべてが終ったら…』
ええ、わかっています。サヤ。
だから、それまでは。
…わずかな夢をみてもよいでしょうか……?



<1>
月明かりの下、夜露にぬれた風の中、音を消し去る暗闇の中で…。
私はいつも、彼女の気配を感じる。
たとえ近くにいなくとも。
その目が開かれることがなくとも。
その存在は強く、明るく私の意識を奪う。

貴女の声が聞こえなくとも、その眼差しを見つめなくとも。
世界は貴女の気配に満ちている。

それだけで、私はどこまでも行ける。

だから。
貴女の目覚めの気配を待ちながら、日々を数えていたというのに…。


聞こえたのは悲鳴だった。
耳をふさぎたくなるような、心をちぎられる叫びが、私の心に流れ込んできた。
「…サヤ!!」
貴女の気配を感じながら、そこに到達するまでの時間がこれほど遠く感じられたのは初めてだった。
「いったい…何が…!?」
駆けつけた私を迎えたのは、戦火と怒号…そして、目を覆いたくなるような彼女の姿だった。
獣の咆哮をあげる彼女を前にして、私は初めて絶望を知った。

「サヤ!!…私です」
私に刃を向ける彼女に、何度も呼びかけるが…彼女の心は遠く、私の声は届かなかった。
「…ぐッ!!」
身体を抜ける刀の痛みに、目の前が暗くなる。
(どうか…正気に…)
彼女が振るう刃を自分の身体においたまま、私はそれを押さえ込む。
これ以上、彼女がそれを振るう様を見たくなかった。
それが、彼女の意思ではなかったから。
「…サヤ…」
翼手化した右手でがちりと刃を押さえ込んで、語りかけるより他に私は方法を知らない。

サヤを止めたいが、サヤに刃は向けられない。

「ァァアアア…ッ!!」
血のように赤く染まったサヤの瞳が光を放つ。
残忍な獣だ。
怯えと殺戮の本能のみに従っている。
(…こんなサヤは知らない)
これは彼女ではない。
けれど、解るのだ。私の中のサヤの血が…紛れもなく、あれがサヤであると知らしめる。
「サヤ……」

彼女の心が悲鳴をあげている。

助けを求める悲痛な呼び声に、私は応えた。



<2>
鞘を握る彼女の腕ごと刃を押さえ込み、ハジは身体を深く沈める。
サヤにむかって倒れこんだのだ。
彼女を傷つけることなく、彼女を押さえ込むために。
彼の身体に食い込んだ刃は、より深く傷をえぐり新たな血があふれ出た。
刺し貫く刀が傷を治すのを妨げるため、血はとどまる事なくハジから流れていく。

彼の身体を伝い、サヤに落ちる。
「……」
「サヤ」
わずかに、刀を握る手から力が抜けた。
「…ハジ…?」
赤い瞳が不安定に揺れた。焦点を失って呆けたようにさまよう。
「…サヤ…!」
帰ってきましたか。
彼はほっとため息をついた。
「ハジ!?…わたし…」
頬にぬらすハジの血に、驚き目を見開くサヤ。
「何…これ、血…?」
どうして。
唇に乗せるより早く、彼女は自分の握る刀がハジを貫いているのを知った。
同時に耳に届いた砲撃の音。
サヤの視線が横に流れるのを感じると同時に、ハジは彼女の視界を遮ろうとした。
しかしそれより一瞬早く、彼女は周りの状況を飲み込んでいく。

「…ッ、嘘……!」
唇がわなないて、まつげが震えた。
「あ…私がやったの…?これ…を…っ」

彼女の視線は切り刻まれて倒れる兵士の上にあった。
さらに向こうには、兵士ですらない子どもの姿が…大量の血を吹きながら倒れている。
「い…嫌…っ、嘘でしょ…!?」
「サヤ…あなたのせいではありません」
けれど、サヤにはハジの言葉は聞こえなかった。
「ねえハジ、これは私がやったの…?私が…この手で…」
血にまみれる両手で顔を覆うサヤ。
その喉の奥から悲鳴とも嗚咽ともつかない音が漏れ出でる。

「いやぁぁ…っっ!!」

サヤの叫びを、ハジはそれ以上聞いてはいられなかった。
血と涙で汚れた彼女の頬に、そっと左手で触れる。その途端、彼女の身体から力が抜けた。



<3>
「全部…夢だったらいいのに…」
サヤはそう呟く。
眠りに落ちていく…まどろみの中で、何度も。何度も。
まぶたの裏に甦る火の手、赤い血、人の悲鳴。
「…目が覚めたら…すべて元のとおりだったらいいのに…」
意識の落ちる直前に滑り落ちる涙。
…忘れてしまいたい。
祈るように、彼女はそれだけを願っていた。


(残酷な人だ。貴女は…)
眠るサヤのまなじりに口づけし、ハジは心の中で呟く。
私をこの世界に引き込んでおいて…私を置き去りにする。
すべてを忘れるというのか。
…私の事も。
けれど、ハジは彼女には逆らえない。
(…忘れてください。何もかも…)
それが貴女の願いなら…。
いっそ総てを忘れてしまえばいい。ここであった事も、今までの戦いも。
私の事さえも。
貴女の辛い記憶に繋がるすべての事を、真っ白にしてしまえばいい。

彼は横たわるサヤの頬に手を添えた。
触れるか触れないかの瀬戸際で、そっと指を滑らせる。
頬からまぶたへ、鼻筋を通ってかすかに息を吐く唇へ。
微かに感じる体熱を感じながら、ハジは緊張に震えた。


それでも…私は貴女を忘れられない。
貴女の事だけをいつも考えている。貴女の事しか考えられない。
眠りに落ちる貴女の、その気配が愛おしい。

唇からあごにそって首筋へ。血の流れる脈筋をたどる。
まだ微かに脈動を感じる。
鎖骨を滑り、のどのくぼみを丸く撫でた。
もはや、サヤはぴくりとも動かなかった。

…貴女だけがいればいい。
それが私の世界のすべて。

さっきまで息づいていたはずの胸は、既に上下していない。
かすかに感じ取っていたはずの熱も、もう消えてしまった。

貴女だけがいればいい。
たとえ、私がいなくなっても。
この世界に色づくのは、貴女の気配だけ。

(貴女が望むなら…サヤ、私は貴女に従います)
すべてを終らせる為に。



やがて目覚めの時が来るまで、彼女は眠りにつく。
眠りを守る騎士は、固くその心を凍らせた。
 
 

 ごあんないいただきもの目次


§ 砂子朱さんからのいただきものです。
ありがとうです。
 §



     *お礼*

 4000のキリ番を踏んだ記念として、砂子朱さんからいただきました。
 リクエストは、『ハジ&小夜の、ぎりぎりで、ああ一線超えそう超えちゃうわ、でも……超えちゃうのかしら……?』です。
 コレ読んで、もだえまくりました。
 ハジ……かっこいい……。たまらないわ。
 なんてストイックなの、あなたってば。そこがまた魅力的。
 砂子さんのこのblood+二次で、更にいっそうハジの魅力にはまってしまいましたよ、わたし。