『月夜に思う』



 階級制度、身分。
 それらについて考えたことがないわけではなかったが、この問題が、まさか自分に関わってくるとは思ってもみなかった。
 ――― ウィリアム・ジョーンズ。
 彼はどうして、ジェントリなのだろう。
 どうしてわたしは、彼と並ぶことができないのだろう。
 メイドという立場にいたからこそ出逢えても、ふたりの間にそびえる身分という壁に、エマは切なく溜息を落とすしかない。
 彼と一緒にいると、胸が高鳴り、熱くなる。
 彼の優しく微笑む、澄んだ緑の瞳に自分の顔が映る。
 ただそれだけで、どうしようもなく嬉しさがこみあげてくる。
 だから、だからこそ、超えることのできない身分の壁が、苦しくてたまらない。
 彼の声、彼の気配、彼の手のぬくもり。
 失いたくない。
 得られないと判っていても、繋ぎとめておきたい。  そのすべてが自分に向けられていると気付いてしまうと、他の誰にも、与えて欲しくない。
 たとえそれが、ジェントリとして必要な結果だとしても。
 そばにいたい ―――。
 エマはそんな思いに首を振る。
 窓の向こうからは、欠けはじめた眩しい月が、屋根裏部屋に光を落としていた。
 エマの手には、今日届けられた、ウィリアムからの手紙。
 内容は、他愛もないものだ。
 ハキムが邸内で自動車を乗りまわし、危うくぶつかりそうになったので文句を言ったら、逆にかりかりしているとエマに嫌われるぞと返されたとか何とか。
 短い文章だったが、彼の筆跡はその内容とは関係なく流れるようでとても綺麗だ。
 ひと文字ごとの線を辿る。
 彼の想いが、文字という形を超えて、伝わってくる。
 永遠に続いて欲しい、いまこのとき。
 ふたりの将来を望むことは、エマにはできない。
 エマには、動けない。
 エマはウィリアムからの手紙をそっと胸に抱きしめた。
 だから ――― 愚かだと判っている、でも先のことは何も考えず、ただこうして彼との時間を過ごしていたい。
 この月が欠け、また満ちた先の時間は、頭の外に押し出してしまいたい。
 そう思うのは、たぶん、いけないことではないと思うから。
(そう、ですよね……?)
 エマは静かな月を、すがるように見上げて、もう一度目を閉じた。



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