『嵐前静夜』 |
クリスタルパレスの高いガラス天井の向こうには、澄み渡る満月がかかっていた。 その光に満たされ、ふたりは唇を離した。 ウィリアムは、思わず小さく吐息した。 「あ、いや、その。違うんです、ほっとしてしまって」 見つめ返すエマに、慌てて言い訳をする。 「自分の気持ちに、自信を持つことができると」 エマの眼差しが、揺れた。 「正直、あなたが僕の気持ちを受け入れてくれる自信は……あまりなかったんです」 「……わたしも、です」 エマの声は、深夜だからこそ尚いっそうひそめられていた。 「ジョーンズさんとは、住む世界が違います。だから、お会いできない日があると、もうこのままなのかと……、とても不安になります」 「えっ」 ウィリアムは、意外な言葉に驚き、エマを振り返る。 だが、彼女は予想に反し、その表情は暗い。 「でもいつかは、そうなってしまうんですよね……」 「エマさん……」 青い月の光は、エマの憂いを際立たせている。 エマが何を言おうとしているのか、ウィリアムには痛いほど判る。 「先日、父が言ったことは、気にしないでください」 「そういうわけには」 悲しげに首を振るエマ。そんな仕草すら繊細で愛しい。 「僕は父とは違います。父の言葉は、僕の言葉ではありません」 「でも、ジョーンズ家の言葉です」 エマは正論をついた。 ウィリアムは胸が痛くなる。 どうして、この国には階級の違いが存在するのだろう。 何故、神はふたりを同じ階級にしてくださらなかったのだろう。 そうすれば、こんなにもエマが苦しむこともなかったのに。 一方的に、拒絶されることもないのに。 ウィリアムは、気付かれないよう静かに唾を飲みこんだ。 「エマさん」 名を呼ばれても、エマはじっと俯いていた。 「父に、 ――― 父に話します。あなたのことを」 弾かれたようにエマはウィリアムを仰ぐ。 ウィリアムは固い決意で頷き返した。 「もちろん反対されるでしょう。でも、説得します。判ってもらえるまで説得をして、認めてもらいます」 「でもジョーンズさん」 エマは不安な声をしていた。 そんなエマの手に、ウィリアムはそっと自分の手を乗せた。 「ええ、簡単なことではありません。でも、そうしたいんです。そうしなければ、ならないんです」 困惑するように、エマは視線をそらした。 「あなたとの時間を、これからもずっと過ごしていくためには、どうしても避けて通れないことなんです。でもね、エマさん」 ウィリアムの口元にはどういうわけか、笑みが浮かぶ。 「この困難を乗り越えれば、もうどんなことが起きたって、僕たちはやっていけると思うんです」 その言葉は、エマの胸に熱い希望を生み落とした。 さまよっていた眼差しがウィリアムへと戻ってくる。 いろんな感情がないまぜになって、エマの表情を歪ませる。 「そう思いませんか?」 エマは言葉を発さない。 「僕は、そう思います」 「 ――― ええ」 月の光をあびて、ウィリアムは嬉しそうに微笑んだ。 エマの頬を、透明な雫が光を返してすべりゆく。 ウィリアムは、指の背でそっとそれを拭う。 虫の音が、静寂を深めていた。 月は天井をゆっくりと渡り、ふたりの影を重ね合わせる。 ウィリアムは、静けさを壊さぬようそっと、エマの唇にもう一度触れたのだった ――― 。 |
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