『夏が始まる ―fresh9』 |
9課の仕事は、季節とは関係がない。 だからこそこの時期になると、ああもうそんな時期かとみなは気付くのだ。 「トグサ、臭いぞ」 「え?」 そう言ったのは草薙だった。眉間にしわを寄せ、トグサを軽く睨んでいた。 「汗だ。汗臭い」 「そうっすか?」 「嗅覚を落とせばいいじゃねえか」 「任務に支障をきたす」 草薙はバトーに素っ気なく言う。その横で、トグサは自分のワキをくんくん嗅いでいる。 「別に臭くないけど」 「自分では気付かないものだ。臭いと言ったら臭いんだ。何とかしろ」 「……旦那」 トグサは腕を軽く上げ、バトーに嗅いでもらう。 「うお」 「臭うか?」 バトーは鼻をつまんでいた。 「……生身はつれえな」 「う……、もうそんな時期かよ」 トグサはうんざり肩を落とした。 「だから何とかしろ。部屋中汗臭くなって気が散る」 草薙は容赦なく切り捨てる。そんな草薙に、トグサはちょっと反論してみせる。 「でもおれの臭いだけじゃないはずだ、生身なのはおれだけじゃない」 確かにサイトーも義体率は低い。しかし草薙はフフンと笑う。 「わたしはこれまでサイトーに、汗臭いと言ったことはない」 「そういやそうだな」 こんなところで草薙に同意するバトー。同じ男としてトグサは内心ムッとする。しかし確かに草薙がサイトーに「汗臭い」と言っている記憶はトグサにもなかった。 「判りましたよ。何とかしてくればいいんでしょう」 一方的に悔しくて、トグサの声にもトゲが出る。しかしそんなトゲは、サイボーグにとっては綿毛のようなもの。それが判るからこそよけいに悔しい。 トグサはロッカー室へ向かう。 自分のロッカーを開けて、扉のポッケからスプレーを取り出す。 『気になる汗もこれでスッキリ 制汗スプレー フレッシュ9 ほんのりフローラルシルバーの香り <携帯用>』 去年の夏、草薙からうるさく言われてしぶしぶ家から持ってきたものである。妻が以前使っていたものを、こっそり頂戴したのだ。 結局去年は意地を張って使わなかったが、とうとう今年は夏を迎える前にお目見えである。 トグサは思わず溜息をついた。 (いい男が制汗スプレーかよ。何がフレッシュ9だ、くそ) 胸のうちでぼやきながらも、トグサはワキにスプレーした。 デスクに座っていた草薙が、突然勢いよく立ち上がった。 緊迫した眼差しで、周囲を警戒する。 どうした、とバトーも訊く前に、はっと身体を緊張させる。 「何だこの……異臭は」 草薙はさすがに自身の嗅覚をシャットダウンさせた。 同時に部屋の扉が開き、トグサがやってきた。 「少佐、どうです。これなら文句ないでしょう?」 状況が判っているのかいないのか、トグサは胸を張ってそう威張る。 草薙とバトーは顔を見合わせた。 「おまえ……、わざとなのか?」 「何が?」 トグサはバトーに訊き返す。 「それとも……気付いてない? おまえ鼻炎なのか?」 「はあ? 何言ってんだ」 「その臭いだ!」 草薙がトグサに吠えた。トグサの身体から異臭が発生していると、眼前に表示されたデータにもある。 「まだ文句言うんすか? ちゃんと制汗スプレーしてきましたよ」 「だが、人間ではありえない臭いだぞ、これは」 口を開くのもイヤなのか、バトーはもごもごと言う。 指まで指されてトグサは、くんくんとスプレーした場所を嗅いでみた。 その動きが、 「うっ」 ―――止まる。 スプレーしたときには気付かなかった異臭が、そこから放たれていた。 そう、例えて言うなれば焼ける金属のような臭いが。 「何だこれ! うわ、たまらん」 「いま頃気付くな! げほっげほっ」 草薙がむせた。 「ほんとに制汗スプレーなのか? ちゃんと確かめたのかよ」 「制汗スプレーに間違いないって! 何年か前にかみさんが買ってきたやつを失敬してきたんだから」 「女ものかよ!」 「しかも何年か前ってのはどういうことだ。ちゃんとシーズンごとに用意するのが常識だろう!」 意外にも草薙が女性らしい発言をする。だが、感心している状況ではなかった。 彼らの背後で扉が開いた。 「うっ!」 うめいた途端、くらりとバランスを崩したのはボーマだった。入室早々、壁にごんと頭をぶつけた。 「何だこの臭いは」 頭をさすりながらボーマが訊いた。草薙はトグサを顎でしゃくる。 ボーマの後ろにはパズ、イシカワ、サイトーが続いていた。彼らも入室順に悲鳴を上げた。 ただ唯一、サイトーだけが平然としていた。 「何だみんなして」 トグサにとっては、それは天からの言葉にも思えた。 「トグサの野郎が女ものの古い制汗剤を使ったんだ。臭いの何のって」 「へえ。べつにそれほど気にはならねえぜ」 「サイトー、おまえっていいヤツだ〜」 「感動する前に、とっととシャワー浴びてこい!」 草薙は一喝する。 「よくセンサーが感知せずにいられるな。警報が鳴ってもいい勢いじゃねえか」 天井のセンサーを、パズは見上げていた。 「何だよ、いいだろ。騒いでるのは義体組だけじゃねえか。生身のおれたちにはたいしたことないぜ」 「だが、異様な臭いはしないでもない」 トグサの奮闘虚しく、残念ながらサイトーは正直に申告する。 「諦めろトグサ。職場環境のためだ。シャワーを浴びて原因をたて」 サイトーの言葉に、鼻をつまんだみなが頷く。トグサと反対側の壁に張り付いている光景がまた説得力があった。 「わ……判りましたよ……。シャワー……してきます……。くそぅ」 これ以上ないほどトグサはがっくりと肩を落とし、部屋を出ていった。それはまるで、母親に見捨てられた仔犬のようだった。 ―――翌日、トグサが9課のメンバー全員から無香料の制汗剤と消臭剤をプレゼントされたのは、言うまでもない。 |
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