『痛み ―gastritis』 |
ある作戦が終わり、9課に戻ったトグサは、腰に違和感を感じた。だが、作戦中にちょっとひねったのかな、と、深くは考えなかった。 ところが、時間が経つにつれ痛みはどんどん強くなる。腰というよりも、どうやらこれは胃が痛んでいるようだ。 報告書をまとめているうちに、だんだん姿勢は前かがみになり、眉間のしわも消えなくなった。 「どうした、トグサ」 トグサの異変に最初に気付いたのは、パズだった。 「いや……、なんか、胃が痛くて……」 「胃が痛い? なんか悪いもんでも食ったのか」 「いや……」 胃が痛くなるなど、初めての経験だった。 報告書も書き上げたので、ひと寝入りすれば何とかなるだろうと、トグサは仮眠室で横になることにした。 仮眠室のベッドに、トグサは身体を投げだした。 引きつれるような痛みに、仮眠室を選んだ自分を、トグサは後悔する。 横になっても、胃の痛みは治まらない。仮眠室ではなく、医務室に行くべきだったが、もう遅かった。もう一度身体を起こして移動するのは、身体を鍛え上げているトグサにとっても、かなりきつかった。 せめて眠れば痛みから解放されるのだろうが、止まらない痛みに、眠ることすらままならない。 うんうん唸っていると、別のベッドから声がかかる。 「どうした?」 サイトーだった。 ぐったりしているトグサを、首を伸ばして覗いている。 「胃が、痛くて……くそ」 声を発するのも苦しいくらいの痛みだった。 息も絶え絶えなトグサのもとに、サイトーは歩み寄る。 「かなり辛そうだな」 トグサは頷いて答える。――YES。 「医務室へは?」 首を横に振る。――NO。 「なんだって仮眠室なんかに来るんだよ。胃が痛いんなら、医務室だろうが」 痛々しげに首を振るトグサに、サイトーは呆れて言った。 「待ってな。薬もらってきてやる」 そう言い残し、サイトーは仮眠室から出て行った。 しばらくすると、サイトーは医務官をつれて戻ってきた。 神経性の胃炎だろうと医務官は言い、痛み止めをサイトーに渡して帰っていった。 「起き上がれるか?」 「う……ん、たぶん……」 サイトーの助けを借りながら、トグサは身体を起こした。ずきんずきんと痛みが身体を内側から削っていくようだ。 トグサはサイトーから薬を受け取ると、弱々しい手つきでそれを飲む。 飲んで30分ほど経たないと、効き目は出てこないと医務官は言っていた。 あと30分の辛抱か。 そんなにもまだこの痛みに堪えなければならないのかと思うと、うんざりした。 「神経性の胃炎って、おまえ、悩みでもあるのか?」 吐息をつくトグサに、サイトーが訊く。 「そんなの、ないよ」 ささやき声でしか、もう声が出せない。 「最近、ゆっくり、休めてない、からかな」 激務続きで、家には全然帰っていなかった。その疲れが胃に来たのかもしれない。 「確かにおまえ、頑張りすぎだからな」 首を振るトグサ。 「少佐のイジメにもよく堪えてるし。胃炎も、実はそれが原因なんじゃないのか?」 サイトーが評する少佐のイジメとは、もちろん実際にイジメがあるわけではない。9課の激務は義体化していてもかなりハードだ。それを生身に容赦なく強いる草薙の態度を言っているだけである。 だが、生身である自分の身体を言い訳にするようなトグサではない。生身だからこそ、誰よりもまっすぐに任務に打ち込んでいる。そして草薙も、あえてトグサをハードな任務に参加させていた。 それが彼の胃を壊したのではないのか。サイトーはそう思ったのだ。 「そんなこと……」 思ったことがないわけではなかった。正直、どうしておればかりがキツイ作戦に駆りだされるのかと感じたこともある。だが、期待されているのだと思おうと思えば思える。だからトグサは自分にそう言い聞かせ、疑念を頭から追い出そうとしていたのも事実だった。 こうして神経性胃炎と診察されては、それはやはり虚しい努力だったのかもしれない。 「そんなこと、……、あるかも、しれない、よな」 思わずトグサは口にした。 そのときだった。―――仮眠室のドアが勢いよく開いたのは。 「! 少佐!?」 げっと、サイトーが及び腰になった。 トグサもぎょっとした。何だってこんなときに、まったくもってタイミングが悪い。 「トグサ」 草薙の通る声が、ベッドに起き上がっていたトグサに突き刺さる。 「おまえ、神経性胃炎だって?」 そう言って草薙がつかつかとやってきた。 「は……、はあ。そうみたい、っすね」 こちらを見下ろす草薙に、トグサは消え入りそうな声で答える。草薙の出現で、胃はきりきりと痛みを訴えた。これは本当に、原因はこの上司にあるのかもしれない。 草薙はじっと、トグサの胃あたりを見つめていた。その目が、急にサイトーへと転じる。 「サイトー」 突然名を呼ばれ、サイトーははい! と元気のいい返事をしてしまう。 「おまえの残りの仮眠時間は、こいつにくれてやれ」 「はあ……」 サイトーとトグサは顔を見合わせた。 草薙にしては、温情のある言葉だった。 「判ったら仕事へ戻れ」 「……じゃあトグサ、無茶すんな」 「ああ。ありがとう」 サイトーが仮眠室を出るのを待たず、草薙は言った。 「神経性だか何だか知らないが、原因はありもしないわたしのイジメと聞こえたが?」 「少佐、それは」 身体をこわばらせたトグサに代わって、足を止めたサイトーが草薙に説明しようとする。 草薙は手で、それを制した。 「原因が何であれ、9課には、神経性胃炎になるような軟弱な男はいらない」 トグサははっと草薙を見上げた。草薙は厳しい顔で、トグサを見据えている。 「でも少佐」 「話しているのはおまえじゃない」 トグサをかばおうとするサイトーを、草薙は容赦なく切り捨てる。 「……それは、辞職の、勧告ですか?」 「その判断は、おまえに任せる」 知らず、トグサはぎゅっと手を握りしめていた。 「だが」 ぴんと張り詰めていた空気に、草薙は言葉を重ねる。 「その原因をわたしに転嫁しようとしたことは見逃せない。よって、おまえを一から鍛えなおすことにする」 「え?」 トグサとサイトーが、同時に聞き返した。 「教官は、おまえの奥方に頼んでおく。厳しくしつけるよう伝えておくから、2日ほど自宅で訓練して来い」 「え?」 トグサは、目をぱちくりさせた。 「二度も言わせるな」 そう言って、草薙は仮眠室から出て行った。 トグサとサイトーは、ふたりしてただ顔を見合わせることしかできなかった。 しばらくすると、イシカワがふらりとやって来た。サイトーは草薙の命令もあり、既に仮眠室を後にしていた。 「胃をやられたんだって?」 「そうらしい」 「少佐な、神経性胃炎って医務官の報告に、かなりびびってたぞ」 「少佐が?」 あの態度を見た後では、にわかには信じがたい。 イシカワは向かいのベッドに腰を下ろし、訝しがるトグサをやわらかな眼差しで見つめていた。 「おまえ、少佐がおまえを引き抜いた理由、聞いてるか?」 「生身のおれがいることで、9課が偏った組織にならないためだ、って」 「そうだ。それなのに少佐は、生身のおまえの存在を無視した行動を取り続けていた。だから、おまえが神経性胃炎になったと思ったんだろう」 言われてみれば、今回のことはそう取れるのかもしれない。 「これまでの作戦の取り方、これからの作戦の取り方、時間をかけてでもいろいろと洗い直すそうだ」 「だから……2日間自宅待機って言ったのか……?」 草薙らしいもってまわった言い方で。 家族の中で、ゆっくり休めと。 トグサは、知らず全身にみなぎっていた緊張から解放された。 ほう、と大きく息がもれる。 「ボーマとバトーの非番組が戻ってくるまでは、ここで寝てろとの仰せだ。めったにないチャンスだ、目一杯サボっとけ」 イシカワはトグサの肩に手を置いて、仮眠室から出て行った。 草薙は、草薙なりに心配してくれていたのだ。 それを正直に出せない草薙の不器用さに、トグサはおかしさを覚えた。 何故ならそんな態度は、とても生身の人間らしいからだった。 |
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