『真夏の街』



「待ってくださひ、エステルさん〜」
 真夏の日差しを受け、ローマの街は白く眩しい。石畳は熱をはらみ、眩しい照り返しとともに強い熱気を放出している。
 今年のローマは異常な暑さだ。
 いくらなんでも、これはきっとひとの体温よりも高い。
 だから、黒い僧衣をまとうアベルの辛さは判らないでもないのだが、
「お願いですから神父さま、そんな暑苦しい声出さないでくださいませ!」
 だるだるにだれたアベルの悲鳴は、よけいに鬱陶しい。
「ううっ、主よ、エステルさんが、なんだか怖いです……」
「死にそうな声でそんなことおっしゃらないでくださいまし、人聞きの悪い」
 普段なら耳を素通りするアベルの言動も、さすがにこの暑さではかちんとくる。
 ようやく見つけた木陰に飛び込んだアベルは、勝手にほっと息をついた。
「大丈夫ですよ。こんな炎天下、だあれも散歩なんかしてませんって」
 アベルの言う通り、街中にはほとんどひと影がない。真夏の昼を過ぎた時間。ひとびとはよほどの用がない限り、涼しい日陰に避難している。出歩いているのは、数ブロック先にある教会へと向かうアベルとエステルくらいだった。
 しゃがみこんでしまったアベルを追って木陰に入ると、そこは明らかに涼しい。気持ちがいいのは否めなかった。
「でも神父さま。あたしたちは散歩に出てるんじゃないんですよ。早くしないとあちらを待たせることになるでしょう?」
「何言ってるんです、エステルさん。緊急の用件じゃないんですから、こんな時間に来るなんて、向こうだって思ってませんって」
「……そうかもしれませんけど」
「ね? だからちょっとくらい日陰でのんびりしましょうよ」
 仔犬のような目ですがられると、むげにだめとも言いにくい。
 それに、いったん日陰に入ってしまうと、ひなたに出るのに勇気がいる。
「少しだけですよ」
「はい」
 嬉しそうに細くなるアベルの目。
(……しょうがないな)
 エステルはアベルの横に腰を下ろした。
「――― あ」
 アベルは何かを見つけたのか、街並みの一角に目を留めた。
「ねえねえ、エステルさん。あんなところにいいものが」
「なんですの?」
 アベルの指差すほうを見ると、道の向こうにジェラート屋があった。
「ふふーん。休憩に付き合ってくれたお礼に、わたくしジェラートをおごって差し上げましょう」
「え?」
 聞き間違いだろうか。この万年貧乏神父はいま、おごる、と言った?
 目をしばたたかせるエステル。
(暑さのせいで、限界超えて壊れちゃったのかしら……)
「いやいやなになに、あとで代金を請求するなんてセコイ真似はしませんよ……、と、あ、あれ??」
 あちこち僧衣をまさぐるアベルだが、どのポケットからも出てくるのはゴミばかり。
 やっぱりねと、エステルは冷めた目でアベルを見返す。
「あのう、エステルさん」
「なんでしょう」
「どうやらわたし……、お財布を忘れてきたみたいで……」
「の、ようですわね。では、行きましょうか」
「えっ!」
 腰を上げたエステルに、アベルは悲壮な声をあげる。
「エステルさん、ジェラート食べましょうよ。ね、ホラ、呼んでますよエステルさんのこと。エステルさ〜ん、ぼくを食べてくださ〜いってのが、……聞こえません?」
「聞こえません」
「あっ、あっ、待って、エステルさん」
 炎の中へと突き進む覚悟のエステルに、アベルは懸命にアピールする。
「今日は記念日なんですよ、わたしの!」
「はい?」
 いきなり何を言うのか。
 思いきり胡乱な顔を返すエステルに、アベルはあせあせと言いつくろう。
「えっとですね、記念日なんです。ええと、その、今日はわたしが初めて眼鏡をかけた日なんです!」
「……」
「えええと、でしたら、そうですね。そうだ、初めて寝返りを打てた日です! ――― う。ええと、初めて前歯が生えた日。あっ、離乳食を卒業できた日だったかな? 初めてはいはいした日とか。おお、これですよ! 初めて喋った日ってのはどうでしょう!?」
 どうでしょう? と言われても。
 しかも、この例えはどこから思いつくのか。
「ご自分の子供の記念日を並べられても、困っちゃうんですけど」
 そうとしか受け取れない。
 暑さ以上に、なんだか不機嫌になるエステルである。
「自分の子供って、……わたしの子供ってことですかぁ!?」
 脳天気な声のアベル。ヤだなあエステルさん、とへらへら鼻で笑う。
「そんな、いるわけないじゃないですか〜。暑さで頭がおかしくなっちゃったんじゃないんですか〜? ――― はうっ」
 ぎろりと睨み上げられ、アベルは凍りつく。
「……ハイ。あのー、そのー、お金……、貸していただけないでしょうか」
「素直にそうおっしゃってくださればいいんです」
 盛大な溜息を、エステルはついた。
 こちらが大人になるしかない。
 情けない気持ちやら呆れた思いやらで気が滅入る。
 しぶしぶジェラート代だけを渡すと、アベルは嬉々としてジェラート屋に駆け込んでゆく。しばらくして満面の笑みで木陰に戻ってきた。
「お待たせしました、エステルさん」
 語尾にハートを散らせて、アベルはジェラートをエステルに見せつける。
 しっかりおつりを受け取った後、おや? と思う。よく見かけるものよりも、量が多い気がする。
 訊くと、
「さすがはエステルさん。いいところに目をつけましたね。んふ」
 自慢げに見せつけておいて何を言うのか。さくさくとスプーンで口に運びながら、アベルは幸せそうに答えた。
「ラブラブハニーと分けあっこするんですって言ったら、おまけしてくれたんですよ〜」
「ラブラブハニ〜?」
「前にですね、教授が教えてくれたんですよ、あそこのジェラート屋はそう言うとおまけしてくれるって」
「僧衣姿なのにおまけしてくれたんですか?」
「ねぇ〜。気の利くおやじさんですよねー」
 エステルが軽く眉根を寄せて見守る前で、アベルはひとりで食べだした。
 彼がようやくその眼差しに気付いたのは、カップの部分にさしかかった頃だった。
「あ、遅くなりました。エステルさんもどうぞ。ラブラブハニーと言った手前、分け合わないとね」
「……いいですよ、別に」
 バニラの美味しそうな香りに惹かれはするものの、つい意地を張ってしまう。
「そんなこと言わないで。ね?」
 と、口の前に差し出されたのは、スプーンですくったジェラート。
 え? と目で隣を窺うと、アベルがにっこり「美味しいですよ」と勧めてくる。
(でもこれって、こういうのって……)
 エステルは妙に気恥ずかしくなって、どうしようかと迷う。
 だが、溶けて垂れようとするジェラートに気付いてしまうと、自然にぱくりと口が動いた。
 ひんやりした甘さが口いっぱいに広がり、鼻に抜ける。
「ね? 美味しいでしょう?」
 エステルが口にしたスプーンで、アベルはひと口自分が食べ、またエステルにとジェラートの乗ったスプーンを差し出す。
 戸惑いながらも、エステルはアベルに食べさせてもらう。
 胸がどきどきしてきた。
(どうしよう。何か、言わなきゃ……)
 けれど、言葉も出てこなければ、アベルの顔もまともに見られない。
 エステルはきっと顔を上げると、えいとばかりに木陰を出た。
「エステルさん……?」
「い、行きますよ、神父さま! あんまりのんびりして時間に遅れてはいけませんもの!」
「え……、でもまだこれ残って……」
「ゆとりをもって行動するのは、基本中の基本ですから!」
 ひなたで背中を見せる小さな尼僧の姿に、アベルの口元から薄く笑みがこぼれた。
「……判りました。行きましょうか」
「そうです。行きましょう!」
 やっぱり振り返らない彼女。
 振り返らずそのままに、ひとり歩き出してゆく。
「……まったく」
 かわいいんだから。
 アベルのその言葉はもちろん、エステルには聞こえなかった。
「待ってください、エステルさんってば〜!」
 真夏の街に、エステルのもとへと、アベルは駆け出していった。



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