移動日を挟んで、エステルはジェノヴァに来ていた。
 尼僧としての心得や教義をを学びつつ、老人介護施設、病院などの慰問もあり、研修内容は充実していた。
 そして最終日の12/31 ――― 。
 最後の研修は、午前中で終わった。残りの半日は、街の様子を体験するという名目の自由行動、つまりは半日観光に当てられていた。
 ジェノヴァに来て渡された予定表を見たときから、エステルは観光はせず、半日早くローマに戻ろうと決めていた。
「一緒にジェノヴァ観光できると思ってましたのに……」
 同室で仲良くなった、ピサ出身のシスター・ジュリエが残念がる。
 だが、エステルの気持ちは変わらない。
「ごめんなさい。1日でも早く、ローマに戻らないとならないんです」
 アベルのいる、ローマに。
 シスター・ジュリエは、決意の固いエステルを、ここに留まらせることはできないと直感的に悟る。
「判ったわ。では、ピサに来る機会があったら、わたしを訪ねてきてくださいね、必ずですよ?」
「ええ、もちろんです」
 握手を交わし、抱擁をし、ふたりは名残惜しげに別れた。
 その間にも、エステルの意識はローマに向かっていた。
 
 ほとんど飛び乗るようにして、エステルは列車に乗り込んだ。直行でないため、途中の駅でローマ行きに乗り換えるのだが、その待ち時間が長くて、焦りばかりがつのる。
 そうしてようやく乗り込んだのは、ローマに向かう最終列車だった。
 ――― 三等客車で揺られるうち、エステルはいつの間にか眠っていたらしい。
 ほんのり目が覚めて窓の向こうに目をやると、雪が降り出していた。
 雪化粧の夜の光景が、そこには広がっていた。
 遠くの街明かりが雪に映えて、幻想的だ。
(ここに神父さまがいたらな……)
 一緒に、この情景を眺めたかった。
 ――― と思ったのも束の間。
 降り続ける雪は、次第に列車の運行にも影響を与えだした。
 駅で停車するたび、付着した雪を払うために長い時間を要するようになり、それが各駅停車となり、速度もかなり落ちてきた。
 ローマ到着予定時間は、23:10。
 その時間をとうに過ぎているのに、いまだ着く気配はない。
 もうすぐ、日付が変わろうとしているのに……。
 
 結局、エステルがローマに到着したのは、午前1時を過ぎていた。
 1年の最後の日だからだろうか、ローマ着最終列車には、数名の乗客しかいなかった。
「すごい雪……」
 ホームに降りたエステルは、しんしんと降り続ける雪に息を呑む。
 足首近くにまで、雪は降り積もっていた。
(神父さまは、ここにいるのかしら)
 面会するには遅すぎる時間になってしまったが、アベルのいるかもしれないローマに帰ってきた。その思いは、重たい荷物も気にならなくさせていた。
 踏み出す足には、長旅の疲れなど微塵も窺えなかった。
 
 耳に痛いほどに、雪の深夜は静寂が濃い。
 駅舎の向こうには、街灯に照らされぼんやりと明るい雪景色。
 移動日を待たずに帰ってきてしまったので、尼僧寮までの足は手配されていなかった。到着が予想外に遅かったことと雪のせいもあるのだろう、いつもいるはずのタクシーも、すべて出払っていた。
 タクシー乗り場でエステルは溜息をつく。
「誰かに電報を打っておくべきだったかも……」
 さすがに、荷物を持って尼僧寮までの長い道のりを歩いていくのは、覚悟がいる。ましてやいまだ止む気配を見せないこの雪だ。
「あたしのバカ……」
 早く帰ることばかりを考えて、ローマに着いてからのことは思いもよらなかったのだ。
 うなだれてエステルは、とぼとぼと雪の中、尼僧寮へと足を向けた。
 と ――― 何かを、感じた。
 雪の降り来る先を辿るように、視線を上げる。
 そこには、真っ白な雪をかぶった、ひと影があった。
 エステルは息を呑む。
 荷物がどさりと雪に落ちた。
 言葉も、どこかに消えた。
「おかえりなさい、エステルさん」
 アベルが、ゆっくりと歩いてくる。
 彼の白い息が、街灯に照らされ、夜に滲む。
「あけましておめでとうございます」
 アベルが目の前でそう微笑む。
 エステルは、言葉が見つからない。
 アベルを見つめるしか、できない。
「どうしたんです?」
「あの、だって……」
 ようやく出た声は、ひどく震えていた。
「だって、どうして、神父さまがここに……?」
 今日帰ると、誰にも連絡を入れていないのに。
 それなのに、どうしてアベルがこんな真夜中、ここにいるのだろう?
「教授がね。エステルさんはきっと、今日帰ってくるんじゃないか、って」
(博士が……?) 
「年長者の勘ってやつだそうです」
 エステルは、クリスマスに僅かにかわした教授とのやり取りを思い出す。
「少し、痩せましたか? ここしばらく忙しかったようですが」
 エステルに目を走らせ、アベルは言う。
 けれどエステルは、首を振るしかできない。
 アベルが、ここにいる。
 目の前にいる。
 自分の目の前にいて、ちゃんといて、雪までかぶって、ここにいる……!
「いつから、待っていてくださったんですか……?」
「うん。ちょっと、前、かな。その……雪が降る、ちょっと前、くらい」
「そんな」
 確かなことは判らない。けれど、雪が降り出したのは、もう何時間も前ではないのか?
 思わずエステルはアベルの手を取る。
「冷たい……」
 手袋をしているとはいえ、彼の手は、凍りつくように冷えきっていた。
「すごく、冷たくなってるじゃないですか……!」
 こんなになるほど、ずっと待っていてくれたのだ、アベルは。
 エステルはたまらず、アベルに降り積もっていた雪を払ってやった。
 肩に積もる雪の深さすらも、愛しく思えた。
 そんなエステルの視界が、急に揺れ動く。
 気付くと、アベルに抱きしめられていた。
 火照った頬に、アベルのコートに付いていた雪が触れる。
 背中にまわされた腕は力強く、頭を包む手はくるおしくエステルを抱く。
「あったかいです」
「神父さま」
 逢いたかった、とは言ってくれない。でも、自分を抱きしめるこの腕が、それを物語っている。
「本当に、すごくあったかいです、エステルさん」
「……はい」
 こうしてアベルに抱きしめてもらえる。
 ずっと逢えなかったからこそ、溢れ出る熱い想いも大きい。
 逢えなかったからこそ抱きしめてもらえているのなら、ここしばらくの切なさも、報われるものだ。
 アベルの胸は、なんて広くて大きいのだろう ――― 。
 
「そういえばね、エステルさん」
 尼僧寮へと向かう道すがら、エステルの荷物を軽々と持つアベルは嬉しそうに言った。
「明日から3日まで、わたしたち、お休みが重なってるんですよ」
「え。そうなんですか!?」
「はい。何でも、教授がカテリーナさんと喧嘩したからだそうです。それでわたしたち、急遽お休みをもらうことができたんです」
「博士が? 猊下と?」
 喧嘩するとは意外だ。まして、それが理由でどこをどうめぐったのか、ふたりの休日がどうして重なるのだろう。
「ね。珍しいこともあるんですね。だから今日、こんなにも大雪になったのかな」
 そう言って空を見上げるアベルの顔は、不思議そうではなかった。
 すべてを見通している、そんなものを抱いた眼差しだった。
「たぶん」
 エステルは、アベルの気配を横に感じながら、静かに歩く。
「たぶん、神父さまが迎えに来てくださったからですよ。お土産やご褒美をもらうためでなく」
「うん? ご褒美は、もういただきましたよ」
 言ってアベルは、空いているほうの手で、エステルの手を取った。
 降りしきる雪が、歩道をゆっくり歩くふたりの姿を白く覆っていった ――― 。



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