『Valentine Rose』



 この日もエステルは、朝から忙しく動きまわっていた。
 任務と任務の合間ということもあり、これまで溜め込んでいた雑務を一気に片付けなければならなかったのだ。
「あのう、エステルさん」
 図書室で調べものをしていると、ためらいがちにエステルを呼ぶ声があった。
 ちらりと目で確認すると、廊下からアベルが顔を覗かせていた。
 難解な書物と睨みあっていた最中だったので、
「お急ぎでなければ、後でも構いません?」
 と、ついつい素っ気なく答えてしまった。
「あ……、うん、判りました……」
 アベルもたいした用件ではなかったのか、なんとも歯切れの悪い言葉を残したまま引き下がっていった。
 だが、そんな中途半端なアベルの態度は、一日中エステルに付きまとうことになる。
 報告書を作成しているときも、各教会からの要望に対応しているときも急遽同僚から手伝いを要請されたときも、大急ぎで昼食をとっているときも、何かしら視界の中にアベルのもの言いたげな姿があった。
 気にはなったが、もう明日には次の任務が始まるのだ。はっきりできない要件でちらちら視界に飛び込んでくるアベルの姿は、次第に目障りになってくる。
「シスター・エステル・ブランシェ」
 明日からの任務についてトレスと打ち合わせをしていると、突然内容を無視して名を呼ばれた。
「はい?」
「340秒前から神父アベルが卿を見ているが、その理由に思い当たる節はあるか?」
「え?」
 淡々と状況説明をするトレスに、エステルは後ろを振り返った。
 すると、細く開けた扉の隙間から、怪しげに光る眼鏡がある。
 エステルの胸の底が、ずしりと重たくなった。
「いいえ。きっと寒さで頭の中が凍ってしまわれたんですよ」
 今日のアベルはエステルの神経を逆なでするばかりだ。
「肯定」
 トレスは機械的に返答をし、すぐにエステルとの打ち合わせに戻った。
 何かを訴えるアベルの視線を背中に感じつつも、エステルは目の前の仕事に集中しようと努めた。


 トレスとの打ち合わせは、思いのほか時間がかかった。
 日は落ち、辺りは暗くなり、国務聖省で見かけるひとかげもほとんどなくなった頃、エステルはこの日の仕事を終えることができた。
 軽い伸びをしながら尼僧寮に向かう。
 強く吹き付ける風は凍えるよう。空を見上げると、いまにも雪が降りそうに雲が垂れ込めている。
 春はまだまだ遠い。
「ああ、寒い」
 首をすくめて足を速める。
 その首筋が、ちりりと何かを感じた。エステルの足が止まる。
 全身を耳にして、エステルは周囲を警戒した。
 何かが、 ――― ある。
 あたりはしんとしていて、街路樹を抜ける風の音しか聞こえてこない。けれど、そう、その街路樹の陰に、何かが潜んでいる。
「誰!?」
 強盗か暴漢か。警戒体勢をエステルは取り、鋭く誰何した。
「出てきなさい!」
 数瞬の間。
「 ――― 。」
 前方の街路樹からひょっこり現れたひとかげに、エステルは正直、思いっきり脱力した。
「神父さま……」
 煮え切らない今日1日のアベルを思い出し、エステルは怒りさえ感じた。
「あのう、エステルさん」
「今日もずーっとお暇でいらっしゃったようで」
「あ、えっと、エステルさん、すごく忙しそうだったですもんね、えへ」
 えへ、じゃないでしょう。
 街路灯に照らされたアベルの顔に、エステルはそう言ってやりたかった。
 だが、エステルは非常に疲れていた。
 休憩時間も確保できないくらい忙しかったのだ。
 1秒でも早く休みたかった。
「先に申し上げときますわ、わたくし、ナイトロード神父とは違って今日はとっても忙しかったんです、すごく疲れてるんです。お暇だった神父さまのお相手ができるほど、気持ちにゆとりはないんです。ですから、そこをどいてくださいませんか」
「あ、っと。ああ、ハイ……」
 今日何度目だろう、またもの言いたげな眼差しをするアベル。だが、エステルの前からどこうとはしない。
「わたしだって、神父さまを怒鳴りたくはありませんの。おっしゃりたいことがあるなら、さっさとはっきりきっぱりさっぱりおっしゃってくださいませ」
 苛々と強い口調をほとばしらせると、アベルはひとつ頷き、表情を引き締めた。
「 ――― これ。どうぞ」
 しゃちほこばって、アベルはいきなり僧服のポケットから、1本のバラを差し出した。
 目を、瞬かせるエステル。
 きょとんとするしかできなかった。
 突然目の前に差し出された赤いバラ ――― だったらしきモノ?
「うああっ」
 情けなく裏返った悲鳴は、アベルのものだった。
 アベルの手の先には、くたくたに折れ萎れ、花びらも無残に散ったバラの残骸があるのみ。茎にピンクのリボンが結び付けられているのが、逆に物悲しさを語っている。
「こ、こんなハズではッ」
 何なのだろう、これは。
 このバラらしきモノは、何を意図しているのだろう?
 慌てるアベルをよそに、エステルは頭の外で考える。
 どうして、アベルはいきなり自分にバラの花を寄こすのだろう?
(買収? おねだり? 謝罪?)
 これまでの経験に照らしてみるが、そのどれも答えは返してくれない。
 どころか、アベルのポケットから食べ物と領収証以外のものが出てきたこと自体が、衝撃的だ。
「あ、あの、ホントはちゃんとしたバラだったんですっ」
「この、バラ……? 何なんですの?」
 どうしてもアベルの意図が判らず、エステルは訊いた。
 失言だったのか、アベルは息を呑む。
「 ――― 今日は、ああもう昨日になっちゃったのかな。今日は、聖バレンタインの日ですよ」
「えぇ!?」
 思わずエステルは声をあげた。
「バ、レンタイン……?」
 急いで頭の中のカレンダーを繰る。
 今日の日付、 ――― 2/14。
 聖バレンタインの日だ。
「あ……!」
 いま更になって、エステルは口を両手で覆う。
「あたし、忘れてました……。え? ということは、これって……」
 あらためてくたびれきったバラに目を戻すエステル。
 ピンクのリボンまでして。
「神父さま、からの、ですか……?」
「はい」
「神父さまが、もしかしてご自分で買われたんですか?」
「もちろんです」
「領収証つき、とか?」
「いいえ。だから、1本だけしかありません」
 わけが判らないところで、アベルは少し胸を張る。
 アベルが、バラを買った。
 バラのお菓子ではなく、植物のバラを。食べる目的ではなく、ひとにあげるためにバラを。
 ――― 買う……。
「あの……、わたしに、です、か?」
「そうです」
 大きく頷くアベル。
(神父さまが、わたしに……)
 ありえない展開に、いまのいままでの鬱屈した気持ちが、一気に晴れてゆく。
 代わりに、透明な蜜のような熱い想いが胸の奥から溢れ出た。
 あの煮え切らない態度。
 エステルに、このバラを贈ろうとしていたのだ。
 いつものお菓子のようにポケットに入れていたから、茎は折れ曲がって花も崩れてしまったのだろう。
 アベルらしい。
 自然、エステルの口元に笑みがこぼれた。
「だって。あたしったら、全然気付かなくて。ごめんなさい……」
 自分勝手な態度を取っていた自分が、恥ずかしい。
 どうしようもないくらいに、嬉しくてたまらない。
 バラに伸びた右手の小指が震えて、受け取りざまアベルの指に触れた。
 アベルの手が、その手を包み込む。
 引き寄せられた。
 ずっとここで待っていたのだろうか、頬に当たるアベルの外套は冷たい。
 エステルの背中をあたたかな腕が覆う。
「でも。いま渡せて、よかったです」
 頭の上から、吐息のような声が降ってくる。
「こういうこと、しちゃえますから」
 ぎゅっとエステルを抱きしめ、その頭にアベルは頬を寄せる。
 それはとっても優しくて、不思議と全身が訴えていた疲労を消し去ってくれた。
 忙しさと疲労に苛々していた自分が、莫迦げて思えるほどに。
「すごく……、嬉しいです。ありがとう神父さま」
 アベルの背にまわした腕に、力を込めるエステル。
 食べ物でないものをアベルが買い、贈ってくれた。
 世界中でこれ程幸福なことは、きっとどこにもない。
 誰よりも満たされて幸福なバレンタインを迎えたのは、自分だけだ。
(主よ。そう思っても、傲慢じゃないですよね?)
 だって、堪えられないくらいに幸せなのだから。
 吹き抜ける風すらも、あたたかい ――― 。



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