『Kiss in the Night』



 一国の王というのは、楽じゃない。
 特に外国育ちの女王ともなれば、国内の敵も計り知れない。
 国内外で持ち上がる問題を平和的に処理し、時代に疲弊しきった国民を未来へと導く。
 果てしなく困難な道のりを、それでもエステルはなんとかこなしてはいた。
 毎日が、辟易するような戦いの連続だった。
 そうしていつの間にか、エステルがアルビオン女王の座について、5年が経っていた ――― 。
 この日も、怒涛のような1日を終え、エステルは儀式用ではない自分のベッドに横になった。
 3年ほど前のあの日のことをぼんやりと思い出す。
 アルビオン女王としての日々が、ようやく形になりだしたあの頃。
 カインとの戦いを前に、アベルは寝室に忍び込んできた。
 悲愴な決心に、彼の顔は硬かった……。
 
 
 公務に疲れきっていたエステルは最初、その気配を気のせいかと思った。
 女王が眠る部屋の警備は厳しく、何よりも、ここにいるはずがないひとの気配だったから。
 けれど、あまりにも慣れ親しみ、探していたその気配は消える様子がない。
 おそるおそる振り返ったエステルは、息を呑む。
「お久し振りです」
(神父さま……?)
 数歩離れた壁際に、神父アベルが立っていた。
 あまりのことに、言葉を探すことすらできなかった。
 どうして、ここにアベルがいるのだろう?
(幻覚……?)
 逢いたい気持ちが募りすぎて、幻を見ているのだろうか。
 幻は、こんなにもはっきりと気配を残すものだろうか……?
 目の前のアベルは、固まるエステルに優しく笑みを見せた。
「どうしたんです? そんな驚いた顔をして」
「 ――― 本当、なの?」
「? 本当、と言いますと?」
「本物の、神父さま、なんですか?」
 眉間にしわを寄せるアベル。
「ずっとそのつもりでいたんですけど? 何か、手違いでも?」
「いえ、そういうわけじゃ、ないんですけど……」
 その表情とどこかずれた返答は、まさしくアベルのものだ。
「戦いは、どうなったんですの? もう、終わったんですか……?」
 エステルとは違う方法で、戦いの道を選んだアベル。
 いまこの場にいるのは、それに何らかの形で終止符が打たれたからなのだろうか。
 アベルは、眼差しを一瞬揺らがせた。
「いいえ。終わったわけではありません」
「まだ、続くんですね」
 期待を抱いてしまったからこそ、落胆は大きく胸に落ちた。
「でも、もう終わります」
「え……?」
 きっぱりと断言したアベルに、エステルは戸惑う。
 アベルの戦いの果てには、カインがいることを、エステルは知っている。
 カインとの戦いが、壮絶なものになるだろうことも。
 それを、こんなにもあっさり終わると言いきれるものなのだろうか。
 自分を見下ろすアベルの眼差しは、あまりにも深かった。
 そこに、彼の覚悟の強さを見つける。
 胸の中に、不安が冷たい雫を落とした。
「神父さま、……戻ってきてくださるんですよね?」
 エステルの問いかけに、アベルの眉根がほんの一瞬、ごく僅かひるんだ。
「まさか、戻らないつもりなんじゃ……」
「そんなわけないじゃないですか」
 ――― そんな答えを待っていたのに、アベルは硬い表情のまま、何も言ってはくれなかった。
 エステルはアベルの袖口を掴んだ。
「神父さま……!」
「どうなるかは、判りません。判らないんです」
 いつもの、すぐに冗談めかすアベルの気配を探す。
 だが、アベルの表情のどこにも、からかいの色は見出せなかった。
 エステルは、怖くなる。
 夜遅く突然寝室に忍んできて、思いつめた表情を崩さないアベル。
 それはまるで、今生の別れを告げに来たようで……。
 ぞっとした。
「いやです……!」
 袖口を掴む指先は、白く震えている。エステルは知らず全身に力が入っていることに気付かない。
「そんなこと、おっしゃらないでください……!」
 アベルは、けれど首を静かに横に振る。
「最後に、どうしてもエステルさんの顔を見ておきたくて」
「やめてください!」
 声を荒げてはいけない。隣室には女官が控えているのだ。
 それすらも、エステルには瑣末事に思えた。
 アベルが最後と言う。
 最後に、エステルの顔を見に来たと。
「最後だなんておっしゃらないで。命を落とすことを前提に……、逢いに来ないでください! 神父さまおひとりで、わたしを置いておひとりで先に逝こうとするなんて、やめてください」
 あまりのことに身が震える。
 ふざけたことを言って。そう言い捨てられないのは、アベルの覚悟が眼差しから、表情から、全身から伝わってくるからだ。
「優しいことを、言ってくれるんですね」
 淡い雪のような微笑みに、アベルは言葉を乗せる。
「このまま、自分の決心から目をそらしたくなってしまいます」
( ――― そらして下さい)
 できることなら。
 エステルは胸の内の叫びを、けれど声にすることができなかった。
 簡単に願いを口にできるほど、エステルはアベルのことを知らない小娘ではない。
 政治的にも、純粋な気持ちの面でも。
 アベルはこんなときに、本音ばかりを言ってくる。
 どうしてこういうときにこそ、その場しのぎでもいい、取り繕った言葉をかけてくれないのだろう?
 どうして自分は、何も知らない小娘じゃないのだろう!
(そうすれば、すべて捨てて神父さまと一緒にいられるのに!)
「!?」
 たまらず両手で顔を覆ったエステルは、強い力で抱きしめられた。
「こういうときくらい、せめて、もっと甘えてくださいよ」
 愛しむように、アベルはエステルの髪に頬を埋める。
「いろんなしがらみに縛られて、自分の気持ちも、わがままも、いつも我慢して、みんなのことばかり優先して。こんなんじゃ、エステルさん潰れちゃいますよ、だめですよ頑張りすぎちゃ」
 アベルの言葉は優しすぎて、まるで最後の伝言にも聞こえる。
 そんなのは、欲しくなかった、聞きたくない。
 けれど、ひと言でも多く、 ――― アベルの声を聞いていたい。
「エステルさんのわがままも、聞いてみたいんですよ」
 いつもみたいに、的外れな素をさらして欲しい。
 苦しそうに言葉を吐くことで、覚悟の深さをエステルに思い知らせていることに、気付いているのだろうか?
 それでも、彼の声は愛しくてたまらない。
 アベルはエステルを抱く腕に力を込めた。
 言葉にできない想いが、そこから溢れる。
 エステルも、アベルの背中にやる腕に想いをこめた。
 夜の静けさに溶けこむように、ふたりはお互いを抱きしめあう。
 どれくらいの時間が経ったろう。
 ゆっくりと、アベルは腕を開いた。
 救いを求めるように、エステルを見つめる。
 思いつめたその眼差しには、深い覚悟と決意が見える。
 近付くアベルの顔 ――― 、しかしエステルは唇が触れ合う直前、すっと頬を傾け避けた。
 アベルの喉が音を立てる。
「 ――― すみません」
 ひどく傷付いた気持ちを、懸命に隠そうとする声。
 かぶさるように、エステルは言葉をほとばしらせる。
「違うの」
 アベルは、悔いるように目を伏せていた。まるで、自分自身を責めるかのように、眉間にしわさえ寄せて。
「あたし、待っていたい」
 アベルの眼が、問うように揺れる。
「さよならは嫌。おかえりなさいっていうキスでないと。このままなんて……神父さま勝手すぎる、ひどいわ、ずるい! 勝手に、わたしから生きる希望を、奪い取らないでください……!」
 はっとするアベル。
 アベルの僧衣を握り締めるエステルは、必死だった。
 生きている。ただそれだけで、前へ進む力となる。
「ひとりにしないで……!」
 生き残って欲しいのに。
 生きるための、帰ってくるための戦いでなければならないのに。
 どんなに懇願しても、自分の言葉はアベルの胸を通り過ぎるばかりだ。
 エステルは、自分の無力さが悔しい。
 非力な自分に、アベルの胸を力なく叩く。
 アベルはそっと、エステルの背中に腕を添えた。
 本当に小さな、背中だ。
 胸底から、言いようもない熱い吐息がこみ上げてきた。
 決して失ってはならないものが、ここにある ――― !
 エステルは、息もできないほど強く、強く抱きしめられた。
「エステルさんのところに、帰ってきてもいいんですか?」
「当たり前でしょう……! あたし、ずっと、ずっとずっと待ってますから!」
「 ――― うん」
「おばあちゃんになっても、待ってるから。あたし、それまでは、……あたしキスを、守るわ。誰ともキスは、しない」
 息を呑むような沈黙を返すアベル。だが、エステルは微笑みすら浮かべる。
「キスを知らない女王だって嘲われたら、いやでしょう? ね、だから必ず、戻ってきて」
 アルビオン女王エスター。
 立場上、彼女にさまざまな縁談が持ち上がっていることを、もちろんアベルは知っている。
 それでも、待ってくれると言う。
 キスを守るということは、誰かと結婚をしても、心はアベルに奉げるという意味に他ならない。
 渇ききった荒野に、潤いの雨が降る思いだった。
 待ってくれているひとがいるということが、こんなにも心強いものだとは ――― !
 ひとりきりの戦いなんかじゃない。
 アベルは、頬擦りをするようにエステルを抱きしめ続けた。
 時間が許す限り、きりのつかない気持ちにふんぎりをつけられるまで。
 それは長い長い、時間にも思えた ――― 。
 
 
 あれから、もう3年が経ってしまっている。
 アベルがなかなか現れない間に、いろんなことがあった。
 貴族と市民たち、そして長生種たちとの衝突。そして ――― どれだけかわしていても現実的に進んでゆく、某貴族との縁談。
 なんとか乗りきっていると思う。
 ちゃんと、それなりにはやれていると、思う……。
 ただひとつだけ、たったひとつだけ、足りないけれど……。
  ――― 眠りに落ちそうになる直前、エステルはかすかな物音をとらえた。
 小枝が窓を叩いたような、そんな静かな物音。
 エステルは軽く身を起こした。
 確かな気配があるわけではないけれど、無意識に目は、探すことを覚えてしまっている。
 これまで何度、夜中の物音にアベルを探しただろう。それは風の音だったり、遠くの部屋からの話し声だったり。どれもが欲しいものではなくどれもが、落胆をばかり返してきた。
 今度こそと思いをこめて求めるひと影を探す。3年も続けていれば、胸の底に溜まってゆく落胆は、硬い澱のようになり、エステルの希望を内側から蝕んでゆく。
 それでも。 ――― それでも、確かめずにはいられなかった。
 アベルが帰ってきたと、この目で確認せずにはいられない。
 おそるおそる、エステルはベッドの向こうへと意識をはわせる。
 ――― 視界が、一瞬すべてを見失った。
 全身に、空虚な嵐が吹きぬけるような衝撃。
 同時に、身体の内側が激しく沸騰するような侵蝕が。
 すべての意識は、一点にだけ集中していた。
 天蓋からのカーテンの向こうに、静かにたたずむひと影が、ひとつ。
 胸の内のすべてが、溶けるように崩れてゆく。
 ただ涙だけが、溢れてくる。
 ふたりはじっと見つめあう。エステルの中に言葉はなく、感激ばかりが想いをいっぱいにさせていた。
「 ――― ただいま。エステルさん」
 緊張がにじむ声。彼はエステルの左手薬指に眼差しを投げながら、慎重に近付いてくる。
「もう、遅すぎましたか?」
 首を振るエステル。
 彼はほんのり表情をやわらがせる。
 何度も、夢を見た。
 こうしてふと目覚めると、そこにアベルがいるという夢を。
 それはいつも唐突に目覚めを迎えて、はかない喜びと寂しさに胸を震わせていた。
 いま目の前にいるのは、 ――― 夢じゃない。本物の、真実のアベル・ナイトロードだ。
 生きて、動いている。
 闇に慣れたエステルの目は、歩み寄るアベルの姿をはっきりととらえている。
 ベッドに身を起こしたまま動けないエステルは、ただもうひたすらにアベルを見上げることしかできなかった。
 ベッドは背が高い。
 アベルはベッドに軽く腰掛けながら、エステルの頬に手を伸ばした。
「こんなにも遅くなってしまって、すみませんでした」
 言って、エステルの涙を指の背で拭う。
 その腕を、エステルは抱きしめた。
 アベルの腕だ。
 大きな吐息が、唇から洩れた。
 いままで判らなかった。
 どれだけ自分が気を張っていて、無理を重ねていたかということを。
 エステルは、アベルにそっと抱き寄せられる。
 薄い夜着ごしに感じるアベルの広い胸、腕をまわしても覆いきれない大きな背中。
 アベルの存在。
 ただそれだけを頼みに、この3年、ずっと気を張っていたらしい。
 そうでなければ、解放されたようなこの安心感は説明がつかない。
 止まらない涙のわけが判らない。
 アベルは力を込めてエステルを抱きしめる。その腕も、震えていた。
 言葉を超える想いの強さが、痛いほどに伝わってくる。
 泣き崩れるエステルが落ち着いたのを見計らって、アベルは僅かに身体を離した。
 もっとその胸に顔を埋めていたかったエステルは、小さく抵抗する。
 もう二度と、離れたくなかったから。
 けれどアベルは、強引とも思える仕草で抱きしめる腕をほどき、彼女の頭を大きな両手で包んだ。
 頬を寄せてくるアベル。
 一方的な勢いに、エステルは一瞬、ひるむ。
 こんな身近で触れ合っていて、まして相手はアベルだ。エステルの気持ちが読めないわけではないはずなのに、けれどその想いは無視されてしまう。
 アベルは僅かにあえぐエステルの唇を、ふさいだ。
 優しいのは最初だけ。それは、猛烈なキスだった。
 ほとばしる想いをぶつけるような、激しく狂おしく、むさぼるようなキス。
 こんなキスをエステルは知らなかったし、アベルが知っていることが驚きでもあった。
 なによりも、ほんの一瞬前までは怖ろしく思えたのに、触れ合った瞬間、激しさが幸せでたまらない。
 キス、キス、キス。
 唇に、まぶたに、耳元に、首筋に。
 いつしかエステルは、アベルに組み敷かれていた。
 アベルの手が夜着の内側に伸びようとする。
「 ――― 神父さま」
「は、ハイッ」
 緊張にやや硬くなった口調に、素に戻って思わず手を引っ込めるあたりが、やはりアベルらしい。
 エステルの頬がやわらぐ。
 邪推して躊躇しているアベルの誤解を解かなければ。
「そうじゃなくて。 ――― おかえりなさい。神父さま」
「へ……?」
「おかえりなさいのキスをしたいって、わたし、申し上げたでしょう? だから。おかえりなさい、神父さま」
 間近で、アベルの表情が無防備になり、みるみるうちにくしゃりと崩れた。まるで幼子のような顔だ。
 アベルはそのまま、エステルに深いくちづけを落とした。
 そうして再び夜着に取り掛かろうとするアベルに、声がかかる。
「あと、ね、 ――― 眼鏡が」
 はぅ! とアベルは小さな声を洩らした。
 あまりに間抜けたその声に、エステルは小さく笑う。
 エステルの笑みに、アベルもおかしくなったのか、喉の奥で笑った。
 片手でアベルは自分の眼鏡を外し、ぽんとナイトテーブルの上に放った。



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