よくよく見ると、仮面をつけた男女は多い。 きっと彼らも、身分や立場を隠してこの数日の夢を生きているのだろう。 おとぎ話の扮装をした楽団が街をゆく。 道化師が人々を笑わせ、伸びやかな肢体をしたサーカスの一員が曲芸を披露している。耳に飛び込むのは笑い声、迷子を呼ぶ声。異国の音楽、乾杯のグラスの音。爆竹、知らない国の言葉、知っている国の言葉……。 聖フェルディナンド祭がこんなにも華やかで心躍るものだとは、彼と出逢う一瞬前までは気付かなかった。 「どうぞ」 街の空気に気を取られるエステルの目の前に、オレンジ色の花冠が差し出された。花冠を持つ手を目で辿ると、どこか恥ずかしそうなアベリーナがいた。 「似合うと思います。この白い小花が、星みたいだ」 オレンジ色の花弁に添うような細かな花が、花冠のアクセントになっていた。 「つけて差し上げます。ちょっと待ってて」 背の高いアベリーナは、軽々とエステルの髪に花冠を乗せる。 彼の指が、髪に触れる……。 「やっぱり似合います。ほら、あそこに鏡が」 アベリーナは店先の鏡の前に、エステルを立たせた。 蔦模様で装飾された鏡の中にいるのは、古典の格好をした若い男女。仮面をつけてはいるが、花冠姿の女性は、控えめな中にもどこか高貴さが窺えて、本当に物語の中から出てきたかのよう。 隣に立つすらりとした長身の青年も、格好は地味だけれど、にじみ出る華やかな空気は否めない。 似合いの恋人同士だった。 エステルの目の奥が、急に熱くなる。 いけないと思うよりも先に、仮面の目から、涙の雫がこぼれ落ちていた。 「エ、ツィラーグさん!?」 アベリーナの慌てる声がした。 「どっどうしたんです!? どうしちゃったんです!? あっ、もしかして気に入らなかったとか!?」 ナイトロード神父のような物言いに、エステルの気持ちは更に昂ぶる。 アベリーナの見せる素は、アベルでしかないのだから。 エステルは違うんですと首を振る。 「何でもないんです、ごめんなさい、すみません……」 けれど、涙は止まらない。溢れるばかりだ。 アベリーナはそんなエステルを胸に隠すように抱くと、ひとごみを避け、細い路地に入った。 「大丈夫ですか? 涙のわけを、訊いても構いませんか?」 エステルの涙が落ち着きを見せ始めた頃、アベリーナがためらいがちに尋ねた。 「 ――― 幸せすぎて」 けれど目元に伸ばされたその指は、小刻みに震えている。 「ものすごく幸せで、現実のわたしには、こういうことは許されていませんから。だからすごく切なくて、胸が、胸の奥が痛くて……」 堪えようとしても、勝手に涙が落ちてくるのだ。 エステルは、ふいに抱きしめられた。 「そう思ってもらえて、こんな幸せはありません」 優しい響きが、身体を伝ってエステルの胸に届く。 エステルの顔にそっと手が添えられ、上向けられた。 エステルは、目を閉じる。涙が、こぼれた。 ――― 広場から、わっと大きな歓声と拍手があがる。 大道芸人が炎でも吹いたのかもしれない。道化師が曲芸を見せたのかもしれない。 けれど路地のエステルには、何が披露されたのか判らない。 ただただこの幸せが愛しくて、涙が止まらない。 この季節の夜は早い。 日はあっという間に落ち、街灯や出店などの明かりで街は夜の装いとなる。 明るいうちはサーカス団や子供たちの歌声などが主流だった聖フェルディナンド祭も、夜になると一気に寒くなり、雰囲気もがらりと変わる。 野外劇や交響楽団の野外コンサートが始まり、開放された教会で市民演劇が披露されたり、舞踏会がそこかしこで行われるのだ。 エステルとアベリーナは、時間を惜しむようにそれらの催しに顔を出した。広場の一角で行われていた踊りにも飛び入りで参加し、小さな教会で始まっていた喜劇にふたりして笑いあった。 人々が家路につく気配はない。けれど、確実に時間は過ぎ去っていた。 もうすぐ花火が上がる。 そんな話題が静かに囁かれるようになった。 花火を見るいい場所があると、エステルはアベリーナに肩を抱かれ歩いていた。 祭りの間、アベリーナはずっとエステルの肩を抱いていた。肩に手をまわせないときは背中に手を置いたり腕を取ったりと、まるでいまにも消えゆく彼女を繋ぎとめようとするかのように、必ずどこかに触れていた。 聖フェルディナンド祭最終夜の花火。それは、夢の終わりを意味していた。 花火がすべて上がるとすぐ、教会の鐘が鳴らされるのだ。 現実へ帰れ、と。 その時間が刻一刻と近付いている。エステルの悲痛な想いはかき乱される。 そんな気持ちは、身体のこわばりとなっていた。 アベリーナは優しくエステルの肩を叩く。 「まだ、今日は終わってはいませんよ。花火を待ちましょう」 ふたりは、建物の屋上に来ていた。そこには人々が静かに集まっていた。 冬へと向かう冷たい風が流れていた。 雲はなく空は晴れ渡り、星々のきらめきがずっと向こうにまで続いている。 突然、エステルが見上げていたそこに、ぱぁっと大輪の花が咲いた。一瞬遅れて、どぉんと重たい音が響く。 (ああ……) 祈りにも似た溜息が洩れる。 手すりにもたれるエステルを、淡い光が照らし出してゆく。 背中にはアベリーナが、エステルを包むように立っていた。 「綺麗ですねえ……」 「ええ」 彼がどんな顔をしているのか、エステルからは見えない。見るのが、つらかった。 さまざまな色や形の花火が上がってゆく。屋上の人々も、上がる花火に初めこそ歓声を上げていたが、時が経つにつれてそれも静寂をしか返さなくなる。 誰もが、祭りの終わりを惜しんでいるのだ。 そうして……最後の花火が打ち上がり、夜空は漆黒に浮かぶ星だけになった。 誰も、何も言わない。 虫の音も、街のざわめきも、訪れるその瞬間に息をひそめていた。 手すりに置いたエステルの手に、アベリーナのあたたかな手が重なる。 風が流れた。 その風に乗って、遠く教皇庁からの重い音が届いた。 最後の審判を迎える人々は、こういう思いなのだろうか。 エステルは、まぶたを落とした。声にならない諦めという名の息のかたまりが、胸奥深くから押し出される。 ローマ中の教会が、教皇庁の鐘にならい、運命の鐘を鳴らしだす。 その音はさざなみのように、街に広がってゆく。 背中のアベリーナの身体が、静かに傾いた。 自然に、本当に自然に、エステルはアベリーナの唇を受け入れた ――― 。 ――― 街中を満たした鐘の音は、風の流れとともに遠くへと過ぎ去ってゆく。 もう余韻も名残もなくなったとき、アベリーナは唇を離した。 「鐘が鳴り終わったときキスをしていたふたりは、夢が終わったあとも、永遠に離れ離れになることはないのだそうです」 エステルは、アベリーナの仮面に指を這わせた。 そうであると、いい。 そうであって欲しい。 こんなにも彼が愛しくてたまらないのに。 アベリーナは、想いをぶつけるようにエステルを見つめ返している。 エステルもまた、悲鳴をあげる眼差しを、アベリーナから外せない。 さらわれるように、エステルは抱きしめられた。 くずおれそうなほど、強く。 切ないほどに、愛しく。 「また来年、こうして逢っていただけますか?」 絞りだすように、アベリーナ。 「あなたにまた、逢いたいんです」 「わたしもです」 (神父さま!) こういう形でしか、想いをかわせられないのなら。 エステルは、アベリーナの背中をかき抱いた。 その背中が、ふっと浮く。 気付くと、彼の背中が、どこにもない。 慌てて辺りを見まわすと、階段へと去ってゆく銀色の髪。 その色が見えなくなるまで、エステルは彼の姿を目で追うしかできなかった。 「なぁ〜んでわたしがお祭りの後片付けなんですかぁ〜。もっとこう、ケンセツテキな仕事がしたいですよぉ」 一夜明けた教皇庁 ――― 。 聖フェルディナンド祭の事後処理の書類を抱えたエステルは、懐かしい声を聞いた。 顔を上げると、廊下の向こうから教授とアベルがやってくる。教授に耳をつままれて引きずられている、としたほうが、表現は適切であったが。 「わがまま言うもんじゃない。わたしには昨日の恩があるんだろう? お礼をしたいと言ったのはきみじゃないか、こういう形で礼をしたまえ」 「それはそうですけど……、あっ!」 「おや、これはこれはシスター・エステルじゃないか」 教授はアベルの耳を掴んだまま、にんまりする。 「お、おはようございます」 「おはよう。聖フェルディナンド祭は楽しめたかね?」 「え!?」 どこか含みのある言い方に、思わずエステルはアベルに目をやった。 昨日の男前はどこへやら、アベルは耳の痛みに悲鳴をあげている。 ( ――― 夢の終わり、ですもんね) この情けない姿は、いつものアベルだった。 「はい。とても、よい時間を過ごさせていただきました。 ……ナイトロード神父、いい大人なんですから、後片付けでも何でもすべきですわ。どうせ今日もお菓子を食べて昼寝をするだけなんでしょう?」 「うぅっ、主よ。エステルさんが何だか今日はとっても鋭いです……」 アベルの言葉に、エステルは内心ほっとした。 「では、急ぎますので、これで失礼します」 エステルは神父たちに一礼をして、再び歩き出した。 足を踏み出すたび、我慢していたものが小さな笑い声となって吹き出した。 (だって神父さま、顔の下半分、日に焼けてらっしゃるんですもの……!) エステルは昨日、ちゃんと日焼け対策をしていたのだが、アベルは違ったらしい。 来年逢うときは、日焼け止めを持っていこう。 そう、思った。 |
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