『ここにいるから』 |
――― また来てやがる。 あまり美しくない言葉遣いでちっと内心舌打ちしたのは、レオンではなく、アベル・ナイトロードである。 彼が視線の先にとらえているのは、金の髪をしたひとりの青年。背はアベルより低いものの、それなりの高さはある。顔に残るあどけなさからすると、20歳前といったところだろうか。 国務聖省の敷地内だというのに、青年は我がもの顔で堂々とエステルに付きまとっている。 (あううっ、エステルさんも「職務中ですから」って、ぺっと追い払っちゃえばいいのに、あんながきんちょなんて。ぺっと! ぺぺっと!!) 「ナイトロード神父」 窓に張りつくアベルの背中に、無関心な声がかかる。 「120秒前から中庭を覗き続けているが、ミラノ公の召集よりも優先すべき事態が起きているのか?」 はっとアベルの意識がその声に掴まれ、現実へと引き戻される。 (そうだった……。こんなときに限って、なんだか出張っぽい予感がしたりするんだよな……) がっくりアベルの肩が落ちる。 「はあぁ、カテリーナさんのいぢわる……」 「卿の発言の趣旨は、状況に合致しない」 無関心に言い残し、トレスは先を行く。 できることならこの窓を蹴破ってエステルのもとに馳せ参じたいところだったが、3階の高さから無事かっこよく着地できる自信は、アベルにはなかった。あんな男の前で、無様な姿をさらすわけにはいかない。 後ろ髪を引かれつつ、アベルは上司のもとに向かうしかなかった。 ――― 悪い予感は当たるもので。 カテリーナから下った任務は、北方の某教会で夜毎起きている、怪奇現象に関する調査だった。 現地の人々は吸血鬼の仕業と怖れおののいており、急ぎの調査が必要とされていた。 アベルにとってはそんなことより、エステルの身に迫っている危機のほうが重大事だったが、 ――― カテリーナのついと上げられた眼差しに、逆らうことができなかったのだった。 そうして2日間の調査の後、怪現象は吸血鬼の真似事をした浮浪者による連続殺人であると判明し、アベルたちはあとを警察当局に委ねてローマに戻ってきた。 ――― が。 上司への報告を大急ぎでこなしたアベルを待っていたのは、数日前よりも親密そうなエステルと男の姿だった。 (な、なんだってあいつ国務聖省内に堂々と入ってこれるんだぁぁ〜!) しかも信じたくない光景だが、エステルは目の前の男にプレゼントらしきものを手渡してるじゃないか。 顎に手をやる青年。困ったように小首すら傾げて、それでもプレゼントをしっかりと受け取っている。 (いちいちカッコつけなくても……!) 「シスター・エステルも、ガードを緩め始めたようだな」 正面玄関の影からエステルたちを監視するアベルに、妙に感心した声がかかる。 「きっ、教授っ!?」 「何もそんな、声を裏返さなくとも」 なんとなくうしろめたくて、アベルは顔を引きつらせたまま言葉を失う。 教授はそんなアベルなどを通り越し、あちらがわの少女と青年に眼差しを投げた。 「アベルくんが任務に行ってる間にね、あのふたり、急に距離が縮まったみたいでね」 「ええっ!?」 柱に立てた爪が、めり込みそうである。 蛙の鳴き声のような悲鳴をあげるアベルを、教授は面白そうにちらりと見る。 「『イシュトヴァーンの聖女』と言っても、彼女も女だ。ああやって毎日愛を説かれれば、そりゃあ気持ちも揺らぐだろう」 「あいつ、何だって国務聖省に我がもの顔でいるんです」 うらめしそうにアベル。 「彼の名前はヤロミール・コルジーグ。顔も、ほら、仕草もなかなかいける青年だろう? ローマの娘たちのちょっとした王子さまだ。かのコルジーグ財閥の御曹司。さすがに毎年莫大な寄付金を納めてくれる財閥の独り息子をむげにはできんだろう」 (か……金持ちさんですか……) アベルの頭の中に、ぴゅるりと冷たい空っ風が吹き抜ける。 いつもお金に困ってエステルに頼るばかりの自分とは、正反対のオトコじゃないか。 「年齢差も申し分ないし、まあ、シスター・エステルがその気になったら、還俗して彼の妻になるのもあり得るだろうな。そうすれば寄付もこれから期待できるし。ミラノ公も、時機を見てシスター・エステルに打診する動きだ」 「ええええ〜っっ!? ソ、ソコまで話が進んでるんですかッ!?」 「 ――― おや」 教授が眉を上げる。 「じゃあ、お邪魔虫は退散しよう」 ぽんとアベルの肩を叩き、教授はにやにやしながら去ってゆく。 目を戻すと、ヤロミール・コルジークと別れたエステルがこちらにやってくる。 アベルは慌てるが、まっすぐこちらにやってくるエステルに、逃げることもできない。 「すごい悲鳴が聞こえてきたんですけど、何なさってるんですか、こんなところで陰に隠れて?」 「あ、あ、あのう」 頭の中はしろどもどろだ。 「覗いてらっしゃったみたいですけど」 「あ、あ、あはは〜。あれ、こんなところにクモの巣が〜……。……。な、ないですね。そりゃこんなド真ん前にあるわけないですよねえ、……」 ものすごーく居心地が悪い。 話の糸口を探し、アベルは目を泳がせる。 「ええと、その、……さっきのひとって?」 言ってしまって、地雷を踏んだのを激しく後悔するアベル。 エステルは表情をこわばらせ、小さく俯いてしまう。 気まずい沈黙が下りた。 あのオトコのことが好きなんですか? 還俗しちゃってあのオトコの……奥さんになっちゃうんですか? 「あっ、べ、別にいいんですヨ、わたしなんかに話したくないヒトもそりゃあいるでしょうし」 訊きたいことはあるのに、おどけることしかできない小心者アベル。 「ただちょっと、アレ? って思っただけで。あは。ヤだなあ、そんな深刻な顔しないでくださいヨ。あ! そういえばこれからトレスくんに訊きたかったことがあったような」 逃げ出したい。 無性に、アベルは思った。 自分が可笑しくて情けなくて滑稽で。 こんな姿を、エステルに見られたくなかった。 でもどうしてなんだろう。足が凍りついたように動いてくれない。 「あの方とは、なんでもありません」 緊張に固まるアベルの耳に、落ち着いたエステルの声が届く。 「いろいろ声をかけてくださったり優しくしてくださったり、プレゼントもいただいたりしたんですが」 「プレゼント!?」 卒倒しそうなアベルの声に、エステルは口元に笑みを浮かべた。 「でも、お返ししました。さっきですけど」 「……どうしてです? って、訊いてもいいですか?」 「わたしは、ただの尼僧ですから」 「で、でも、カテリーナさんは」 と言ったところで、アベルはまたもや失言に息を呑む。 エステルは小さく溜息を落とした。 「 ――― 知ってらしたんですね」 「その…………チョットだけ……」 天を突くほどの背を、しゅんと折り曲げ、アベルはうなだれる。 ああもう、どうしてわたしはこんなにもみっともないんだろう。 あのオトコみたいに、かっこよく振舞いたいのに。 あんなオトコよりもずっとずっと人生長いのに。 どうしてこんなにも、無様なんだろう? 「……だから、見ていられないんです」 その声は、不安すら窺えるようなか細いものだった。 上目遣いにエステルへと目を向けると、彼女は困ったような顔をしていた。 「神父さま、だって、捨てられた仔犬みたいなんだもの。放っておけるわけないじゃないですか」 「……?」 ほんわりとつぼみが開くように、アベルの中に温かな気持ちが生まれる。 「それに、人身御供で還俗して、主婦ができるような器じゃありませんもの、あたし。こんな寂しそうな顔の、いい年した大人を放っておけるほど冷たい人間だと思ってらしたんですか?」 「エステル、さん……?」 「神父さまがもっとしっかりしてくださらないから、あたしが面倒を見てさしあげるしかないでしょう?」 アベルはもう、言葉が出ない。 エステルは頷いて見せた。 「わたしの居場所はここなんです。それ以外のどこでもありません」 敢えて教皇庁と言わずここと表現した意味に、アベルは気付く。 それは途方もないくらいの勘違いかもしれないけれど。 「! や、やだ神父さまったら、泣いてらっしゃるんですか!?」 眼鏡の奥の青い目が潤むのを止められなかった。 (まるで小さな子供じゃないか) けれど、正直それは否定できなかった。 不思議なくらい、アベルはエステルの前に立つと、頑是無い子供のようになってしまうのだ。 「泣いてなんかないですよ。泣いちゃうわけないでしょう!」 つんと背を伸ばしてそっぽを向くアベル。 「えっと、……じゃあ、あっちでまだ仕事があったんだった」 思いきり棒読みである。 エステルには、そんなアベルの様子がおかしくてたまらない。 子供のような素を見せるアベルが、嬉しくて愛しくてたまらなかった。 それじゃ、とくるりと背を向けたアベルが、数歩行ったところで足を止めた。 背中のまま、深い声があった。 「 ――― ありがとう」 吹き抜けた風に紛れそうな言葉だった。 エステルの息が止まる。 胸が熱くなって、どうしようもなく笑みがこぼれた。 アベルのたったひと言は、確かにエステルの中に、ここで生きていきたいという想いを、抱かせるものだったから。 |
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