彼女は、宙空からひらりと現れた。
すとんと小さな音を立て、地面に立つ。
その様子を、彼はじっと見ていた。
「……わ」
彼の眼差しの先にいる彼女は、視線の源に気付いて声をあげる。
「泰明……さん?」
右頬に宝珠を抱く、陰と陽に色の異なる無表情な顔。右耳で丸くまとめられたまっすぐな髪。
とにかく無表情な男。
目の前にいるのは、安倍泰明そのひとに違いない。
(ということは……)
彼女は辺りを見まわす。
立っている地面はアスファルトではない、むきだしの土。道の両側に続くのはブロック塀ならぬ築地ばかり。
泰明以外のひとかげは見当たらないが、電柱もなければ店の看板も高いビルもない。
(あたし……またですか……)
またも彼女は、時空迷子になったことをがっくりと悟る。
「お前、鬼か」
肩を落とす彼女に、泰明はどうでもよさげな口調で尋ねてくる。
「お、鬼なわけないでしょう」
「……そうだな。鬼は美しいと聞く」
「悪かったわね」
「何故睨む?」
「間接的にけなされたからです」
「何のことを言っている?」
泰明には、彼女がちょっと傷ついたことが理解できないようだった。
おそらく、事実を指摘して何の文句があろうとでも考えているに違いない。
(くぅ〜、きっとそうに決まってるわ)
だが、彼女はそんなことにこだわっている場合ではないのだった。
「それよりも、ですね。あたしどうやら時空の隙間に落ちてしまったようでして」
「のようだな。そんな奇抜な格好は、神子で充分だ」
「……」
(あたし、別に奇抜な格好してないんだけど……)
彼女が着ているのは、トレーナーにジーンズ。髪はざんばらに下ろしてはいるが、普通も普通、どちらかといえば野暮ったい格好だ。
だが、平安の都ともなれば、これも奇抜に映るのだろう。
「それでですね、安倍泰明さんとお見受けしますけど」
「いかにも」
「あたしが元の世界に帰る方法って、判ります? この世界からの出口、というかそういうのだと思うんですけど」
「知っている。ついて来い」
そう言って、泰明は彼女の額にお札のようなものをぴたりと貼り付けた。
思わずぎょっと固まってしまう彼女。
「あ、あのぅ……、泰明さん」
「何だ。早く来い」
「そのですね。このお札みたいなものって何なんですかね?」
彼女は額のお札に軽く触れる。
何の変哲もない、ただの和紙だ。
「お前の姿が見えないよう呪をかけた。そんな格好でうろつかれては、混乱が起きる」
「おお、なるほど〜」
彼女は感心する。
(別にあたしを封印したわけじゃないのか。びっくりしたなあもう、ひと騒がせな)
こちらの世界の人間からしたら、彼女のほうがひと騒がせな存在なのだが、そのことには気付いていないらしい。
「早く来るのだ。時間がもったいない」
「……判りましたヨ」
(誇張でもなんでもなく、ホントに無愛想だわ、このひと)
思っても口には出さない彼女であった。
泰明に連れられたのは安倍清明の邸だった。
コミックで読んでいた通り、門を一歩入るとそこは木々の迷路。どこを見ても生い茂る木々ばかり。樹海に紛れこんでしまった感覚に、彼女は一瞬襲われる。
「こちらだ。ついてくるがいい」
「あの、あんまりさくさく歩かれると、追いつけないんですけど〜……」
どんどん小さくなってゆく泰明の背中に、彼女は悲鳴をあげる。
くるりと振り返った泰明は、やはり表情を読み取れない。
「お前は神子よりものろまだな」
「〜〜〜。泰明さんって、ホント気遣いのないひとですよね。あかねちゃんにも言われるんじゃないの?」
「何故神子の名を知っている?」
「……」
(いま頃気付いたんかい)
「答えよ」
「あのね、だから言ったじゃん。時空の隙間に落ちちゃったって。あたしのいた世界では、こっちの世界のことを知ることができるのよ。現在進行形なんだけどね。いつかは完了形になるのかな。で、だから泰明さんに会ってすぐ泰明さんって判ったし、あかねちゃんたちのことも知ってるの」
「……。斥候のようなものか」
「斥候ってあのね、あたしがスパイ……斥候に見えますかい?」
泰明は彼女を上から下へと見る。
「見えぬな」
なんだか嬉しくない返答だ。
「とにかくお前は、こことは違う世界に住み、我々のことを見聞きしていた。そういうことか」
「そんな感じ」
「何かの拍子にこちらにやって来た。そういうことか」
「そういうことです」
(まさか自転車で転んだ拍子にこっちにきた、なんて言えないし)
でも、こっちの世界に転がり込んできたおかげで怪我らしい怪我もなかったのだから、痛い思いをしなくて済んだのである。
「ねえねえ」
「なんだ」
泰明が立ち止まってくれたので、話もしやすい。
「あかねちゃん、いまここにいたりする?」
ぎろりと冷たい眼差しが返ってきた。
いやいやこれは泰明さんの普通の顔なのだと、彼女は自分に言い聞かせる。
「土御門の……お邸?」
「お前には関係のないことだ」
「……ごもっともです」
(なんだけど〜)
彼女は別方向から切り込む。
「じゃあ、頼久さんは? やっぱりあかねちゃんと一緒に京のどっかにいるんだよね?」
「それを知ってどうする」
「どうするって、そりゃ……会ってみたいじゃん」
「会ってどうする」
そうくるとは思わなかった。
ええと、と彼女はぽりぽり頭をかく。
「サインもらうとか?」
「左院? 頼久も神子もそんなもの持ってはいないぞ」
おそらく泰明は、彼女の言った「サイン」に何らかの漢字を当てはめたのだろう。
「そうじゃなくって。う〜ん、紙に名前を書いてもらうのよ」
「呪をかけるつもりか」
泰明の眼差しがきらりと光る。
「違〜う。直筆の名前を書いてもらうことで、本人に本当に会ったんだよってことの、気持ちのより所になるのよ」
「……そういうものなのか?」
「あー、う〜ん、まあ、そんな感じ?」
あまりにもクソ真面目に問われると、答える側も困ってしまう。
「あ、そうだ! ねえねえ、泰明さんもサイン……名前書いて欲しいな。なんか適当な紙にでも」
「いかにもとってつけたような言いぶりだな」
(うっ)
ぎくりとする彼女。
所詮彼女は頼久派。泰明のことも気になってはいるが、頼久の魅力にはやはり勝てないのだ。
(でも……、泰明さんってこうして身近で見てもすっごいキレイだよなあ。背が高いのが難点だけど、声も素敵だし、やっぱりアレ? 彼でも『問題ない』ってやつ?)
「あはははは〜」
「笑えることなどないぞ」
「はあ、すいません」
「謝るところでもない」
(……難しいヤツだよなあ)
そんな彼女の額に、泰明の手が伸びた。
びっくりして思わず肩をすくめる彼女。
ぺり、と、額から例のお札がはがされた。
それを裏返すと、泰明は指で何かを書きつける。
背伸びして覗き込むと、それまで白紙だったお札の裏側に、不思議と文字が書かれてゆく。
「適当な紙ではないのだが、名を書いておく。悪しきことに使おうとすれば、この札は蜘蛛となってお前を喰うだろう。気をつけよ」
「えぇっ!?」
差し出されたお札を受け取ろうとした彼女の手が、飛びのいた。
ひらひらと草の上に落ちるお札……。
それを拾った泰明の目が、彼女を睨み上げる。
(ひょ〜!)
「だっ、だって蜘蛛に食べられるって言うんだもん! あた、あたし蜘蛛、大っ嫌いなんだってば! やだ、普段無愛想なんだから、そんな顔で怒んなくてもいいじゃない〜!」
それは溶けに溶けた鋼鉄さえも一瞬で凍らせるような、冷たい眼差しだった。
「悪しきことに使わぬ限りは大丈夫と言ったであろう」
「そっ、それはっ、す、いません……」
「これはいらぬのか」
お札を引っ込めようとする泰明。
「いやいやいやいや、そんなことは滅相もないっス。ありがた〜く頂戴いたしますです、ハイ」
「名とは呪。お前のような者に渡していいものかどうか……」
「……あー、……。そう言われちゃうと、……ヤバイ? やっぱり?」
急に、自分の申し出が厚かましいものと感じる彼女。
彼女のいる世界とは違って、この平安の時代では、名前ひとつでもそれの持つ重みは大きいのだ。
「やめたほうが、いいのかな? そのほうがいい、よね?」
泰明はじっと彼女を見る。
「 ――― 問題ない。お前ならば悪しきことには使えんだろう」
そう言って、泰明はお札を彼女に手渡した。
今度はちゃんと、しっかりと受け取る彼女。
ありがた〜く、額に押戴いている。
「ありがとう、泰久さん。孫子の代まで大切にするよ」
「必要なくなれば、炎で燃やし、その灰を川に流すのだ。よいか」
「意外と面倒くさいんだ。あ、いえいえ、独り言です、気にしないで」
「……では行くぞ。この先だ」
ひと睨みしてからくるりときびすを返し、泰明は再び歩き始めた。
(あー、怖かった。すっごい真剣に睨んでくるんだもん。まあ、それだけ大事なものだってことか。そうだよね)
彼女はもらったお札を胸元に握り締め、泰明の後を小走りについていった。
泰明が立ち止まったのは、一本の大きな木の前だった。
注連縄が張られた幹の太さは、ひと抱えほどもある。
「ここ、ですか?」
「いまから門を開く。それを潜れば帰れるだろう」
「そうなんだ……。門を開くって、泰明さんが開けてくれるの?」
「当たり前だ。お前に開けられるのか?」
「いえ。とんでもございません」
失言、失言。
だが、別に泰明は嫌味で言ったわけではなさそうだ。
泰明は両手を広げ、木の前で何かを呟き始めた。
すると……木の幹の真ん中に、暗い穴が現れた。
最初は米粒のように小さかったそれは、どんどん膨らみ、泰明が向かっている木の幹の幅よりも大きくなっていった。
ひたすらに真っ暗な空間である。
泰明は空間が広がりきったところで彼女を振り返る。
「門が開いた。帰るがいい」
「え。も、門ってこの穴みたいなヤツのこと?」
「そうだ。早くしろ。五行がもたん」
「あ、う、うん」
(えぇ〜、マジですか〜? あたし、この穴の中に入らなきゃいけないの〜!?)
正直、怖い。
これまでにも何度か時空迷子としていろんな時空に迷ったことはあるが、こんな出口を見たのは初めてだ。
「何をしている」
泰明の声が飛ぶ。
「あぅ……。あの、ちょっと、こん中に入るのって、怖くないですか?」
「自分の世界に帰るのに、怖いことなどなかろう」
「だって、でも、怖いよぉ」
「いい年して何を言う」
「いい年も悪い年も怖いものは怖いんだもん」
「泣くことはなかろう」
「なっ、泣いてないもん、目から鼻水出てるだけよっ」
それはそれで美しくはないが、彼女にはどうでもいいらしい。
「仕方ない……」
泰明はそう呟くと、何やらもごもごと唇を動かした。
すると、彼女が握り締めていたお札がぽん! と音をたてた。
驚いて見てみると、お札がてのひらサイズのミニ泰明に変身していた。
「うを〜!」
乙女らしからぬ声を彼女はあげる。もっとも、彼女は乙女という年齢からは遠く隔たってしまっているが。
「うっわ〜、かわいい、これって泰明さんのミニミニバージョンってやつ?」
「わけの判らぬことを言っている場合か。ほら、さっさと行くぞ、ついて来い」
ちびっこ泰明は、彼女のトレーナーを掴んで、ぽっかり開いた穴の中へ引っ張ってゆく。
「わ、ちょっと、ちょっと、泰明さん、くん? くん、でいいのか? どうなんだ?」
どうでもいいことをいちいち気にする彼女である。
ちびっこ泰明がぐいぐい引っ張る力は強い。本物の泰明に胸倉を掴まれ、引きずられていくようだ。
「や、泰明さん〜!」
「怖かろうと怖くなかろうと、これを通らねば元の世界に帰れぬのだ。我慢しろ」
まるで子供の声で、ちびっこ泰明が言う。
小さくなっても、思いやりの片鱗もないカタブツである。
「泰明さん、待ってェ〜。うわ〜!」
目の前に迫る深淵の闇。
あまりの恐怖に声も裏返り、腰が引けていく。
ぎゅっと目を閉じてすぐそこの闇に堪えていると、耳元に驚くほど優しげな声が飛び込んできた。
「わたしが守ってやる。安心しろ」
気持ちが張り詰めていたからだろうか。
それはあまりにも抑揚のない言葉だったのだが、かえって胸の奥にするりとしみわたった。
まぎれもなく、泰明の声だ。
え? と思った瞬間、彼女は闇の向こうへと吸い込まれていった……。
悲鳴も何もなかった。
ややすると、泰明が開いていた門が口を閉じ始めた。
最後の最後、拳大の大きさになったとき、そこからはらりと何かが落ちてきた。
泰明が裏に名を記したお札である。
泰明はそれをそっと手に取り、何かを読み取るようにじっと見つめる。
その眼差しが、目の前の神木に注がれる。
「 ――― そうか。無事帰ったか」
さも興味もなさそうに、泰明は言った。
だが、その口元がおかしげに動いたのは、気のせいだったのだろうか。
それはただ、神木のみが知る……。
泰明は何事もなかったかのように、土御門の邸へと足を向けたのだった。
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