〜時空迷子 攻殻機動隊編〜
 
 
 はてさてこれは困ったぞと、彼女は腰に手をやった。
「どこなんだ……、ここは」
 周囲は寂びれた街並み。雨が上がったばかりなのかビルの壁は濡れ、道路のそこここにできた水溜りには、ネオンの明かりが映りこんでいた。
 見上げても、掲げられている看板は知らないものばかり。
 知らない街に来たというよりも、
(なんか、未来っぽい?)
 という印象だった。
「 ――― また迷子?」
 意図したわけでもないが、どうやらまた時空に迷ったらしい。
 今度はどこの時空に来てしまったのだろう。
 何か手がかりになるものを探さなければと、道を曲がったときだった。
「を」
「にゃ!」
 彼女はいきなり誰かにぶつかってしまった。
「ごめんなさい!」
「いやあ、こっちもすまなかったな」
「は!」
 返ってきた声に、彼女は顔を上げて驚いた。
(い、い、イシカワさん?)
「どうした?」
「あ、いえ、どうもしたわけじゃないというか……」
「どしたの?」
 イシカワの背中から、別の甲高い声が飛び込んできた。
「ん? ああ」
(こっ、この声はっっ!)
 後ろを振り返ったイシカワが答えるよりも、彼女の驚きのほうが早かった。
「タチコマ?」
「ん? 何? ……へ?」
「あんた、どうしてこいつの名前を?」
 イシカワの声に、剣呑なものがにじむ。
「えっと、あの、その、べつにわたし怪しいモンじゃなくって、なくって、でも……怪しい、か?」
 イシカワとタチコマに見据えられ、彼女はへらりと笑うしかなかった。
 
「そういうことか」
 イシカワは得心がいったように頷いた。
 彼女はだめもとで、自分がどうやら時空迷子になったらしいことを説明してみたのだ。
 ありがたいことに、イシカワは時空迷子の存在を知っていた。
「時空迷子って、あの何かの拍子で次元の狭間に落ちこんじゃうっていう、アノ?」
「ああ。存在自体は知ってはいたが、実際会うのは俺も初めてだがな」
「あのぅ、こういう迷子に関して何か知ってることってあります?」
「ボク、出口って言われてる場所なら知ってるよ」
「ホント!?」
 タチコマは自信満々に頷いた。
「あとはねぇ、時空迷子はクセになるんだって。1回迷子になっちゃうと、何回も迷子になっちゃうし、なかなか元の時空に戻れなかったりするんだって」
「ええええっ!?」
 彼女はかすれた悲鳴をあげた。
「二度と戻れないってわけじゃない」
 悲壮な顔の彼女に、イシカワは安心させるように言う。
「で、タチコマ。その出口とやらはどこにあるんだ?」
「ハイルトンホテル34階の北西にある男子トイレ。そこの奥から2番目の個室」
「男子トイレか……」
「ボクは行ったことないんだけどね」
「タチコマは身体が大きいもんね。って。もよおすこと自体ないのか?」
「そういう問題じゃないだろう」
 脱線しそうな話題を、イシカワが諫める。
「すいません」
「まあいい。あんた、ハイルトンホテルのそのトイレの場所は判るか?」
「判らないです」
「だろうな。俺たちはいま任務中だから案内できないからなあ」
「え!? そうだったの?」
 てっきり非番かと思っていたが、そういえばタチコマがイシカワの非番に付き合うとは思えない。
 イシカワは、ふむと考え込む。電通をしているのかもしれない。
「トグサくんなら、いま非番だよ。案内頼む?」
「え!?」
 タチコマの言葉に、彼女の声が裏返る。
「どうした?」
「あの、い、い、いま、トグサくんって、言った?」
「うん。トグサくんのことも知ってるんだ〜」
「あー、うん、その、そうなんだわねー」
 トグサが好きであることは伏せておいた。
「あいつはだめだ」
 彼女のときめきに気付いたのか、イシカワは反対する。
「めったに家でくつろげないんだ。たまの非番に呼びだすなんて無粋な真似はするな」
「ええ〜」
 思わず、彼女は不平の声をあげた。
「何だその顔は」
「や。だって、せっかくこっちの世界に来たんだから、会いたいじゃないですか、トグサくんに」
「どうして」
「え、そりゃ、だってその、……ねえ?」
「ねえ?」
「 ――― タチコマも判ってないなら、相槌返すんじゃない」
「あはは」
 愛想笑いのタチコマを前に、イシカワは腕を組む。
「お。そうか」
 突然の独り言。やはりイシカワは電通をしていたのだ。
「どうしたんです?」
「少佐と連絡がついた。少佐がその出口まで案内してくれるそうだ」
 数瞬、彼女は自分自身に検索をかける。
「少佐、少佐っていったら、草薙素子!?」
「ばっ、莫迦やろう! 呼び捨てにする奴があるか!」
「しかもフルネームでっ」
 イシカワとタチコマの驚きっぷりに、彼女は失言を悟る。
 あわてて口を手で押さえるが、そんなもの言ってしまった言葉は戻らない。
「やばかった……?」
「おまえ、少佐の前でそんなことしたら、生きて帰れねぇぞ。ちゃんとしろよ」
「わ、判った。気をつける」
 軽い脅しにびびった彼女に、イシカワはひとつ息をついた。
「すぐに来るって言ってたから、それまでは一緒に待っててやるよ」
「本当!? ああ、よかった〜。イシカワさんって、やっぱりいいひと〜」
「な、ナンなんだよ……」
 突然胸の前で指を組んで祈りのポーズをとった彼女に、イシカワは内心引く。
「だって、少佐ってこう、その、あれじゃないですか、その……怖いっていうか」
「をを! さすがは時空迷子。少佐のこと、判ってるねえ」
「タチコマ」
 あいの手を入れたタチコマを、イシカワはぴしりと叱る。
「だからひとりで待ってるのって、ちょっと怖かったんだ」
「いい大人がナニ言ってやがる」
「頭の中は子供だもん」
「そう言う奴は、子供じゃねえんだよ」
「う……。反論できない自分が悔しい……」
 そっぽを向いて小さく呟く彼女に、イシカワはそっと言う。。
「一応少佐が気を遣ってくれたんだぞ。野郎に男子トイレに連れ込まれるよりは、女同士のほうがいいだろうって」
「え」
「少佐は怖いだけの女じゃない」
「……」
 ちらりとイシカワを見ると、その目には尊敬の光が宿っていた。
 やっぱり少佐はすごいひとなんだ。
 彼女はあらためて、そう思った。
 イシカワの言うとおり、しばらくすると少佐 ――― 草薙がやってきた。
「彼女か」
 草薙はイシカワに確認をとる。
「ああ。悪いな、いつあいつが現れるかどうか、ヒヤヒヤしてたよ」
「大丈夫! そのときはボクが盾になったげるから!」
 明るい声で答えるタチコマ。
 彼らのやり取りから、彼女はここが危険な任務の最前線だったことを知る。
 下手をすれば、巻き込まれて自分も危なかったのだとも。
 草薙を一緒に待ってくれたのは、本当は、彼女を守る意味もあったのだ。
 あらためてこの世界の恐ろしさにぞっとした。
 その背筋のうすら寒さに、違う何かが加わった。
 見ると、草薙がじっとこちらを検分している。
「 ――― ふぅん」
 意味ありげな眼差しで、草薙はただひと言それだけを言う。
 なんだか、負けたと彼女は思う。
 何が言いたいのか知りたくもあり、だが訊くのはなんだか怖い。
 なので、悔しい気がするものの、彼女は黙って草薙の後についていくしかないのだった。
 
 彼女は運転席の草薙の顔をじっと見ていた。
「どうした」
 くいいるような視線に、草薙は訊く。
「や。綺麗な肌だなあと、思いまして」
「当たり前だ。お前と一緒にするな」
「そりゃそうだけど……。でも羨ましいよな。あたし、気をつけてはいるのに肌が弱いのか、すぐ痒んだりして、ほら、こことかシミになっちゃったりしてるし」
 草薙がちらりと目をよこす。
「大変だな」
「え? あ、……ありがと」
「どうして礼を?」
「ん。なんか、嬉しかったから」
「へえ。判らんな」
 だが、草薙の声は嫌がっているようではなかった。
 そうこうしているうちに、車はハイルトンホテルに到着した。
 
 ハイルトンホテルの34階にエレベーターは昇ってゆく。
「あなた、トグサのファンなんだって?」
 目的の男子トイレに向かう途中、草薙が訊いてきた。
 彼女の足が、明らかに動揺してよろめく。
「えっ、えっと」
「違うのか?」
 訊かれ、彼女はゆるゆると首肯した。
「あいつは結婚してるぞ」
「うん、知ってる。それはちょっと、残念だったりするけど、でも、奥さんや家族のことを大切にしているトグサくんが、好きなんだ」
「へえ」
「もしかすると、だけど、わたしが結婚するのだとしたら、ああいうトグサくんみたいなひととしたいのかな、っていう……憧れなのかもしれない。理想、というか」
「家族と一緒にいられる時間がないって、ぼやいてるぞ」
「それは……ほんとはイヤだけど。でも、すごく、家族を想ってるよね」
「なるほどね。 ――― 着いたぞ」
 ふたりの足は、例の男子トイレの前でいったん止まる。
「ここの、奥から2番目の個室って言ってた」
「のようだな」
 草薙はためらいもなく男子トイレに足を踏み入れた。
 彼女もその後に続こうとするが、きょろきょろとして不審者そのものだ。
「何をしてる。誰もいない。早く来い」
「あ、うん、はい」
 呼ばれ、彼女は草薙の待つ奥から2番目の個室の前に立った。
 個室に入り、開かれているクリーム色の扉を閉めれば、この世界から脱出できるのだ。
 彼女は深呼吸を繰り返す。
「緊張しているのか」
「うん」
「だが、この扉を閉じなければ、帰れないんだぞ。それとも、トグサが恋しいか?」
 彼女は小さく首を振る。
「そうだけど……そうじゃない」
「帰れる保証はないが、それでもトライしなければ結果は出ないぞ」
「うん……」
 彼女はしばらくためらっていた。
 だが、ひとつ息を吐き出すと、彼女は個室の中へ入った。
 草薙を振り返ったその顔は、決意に満ちていた。
 内心、ほうと、感心する草薙。
「じゃあ、行きます」
「ああ。うまく帰れることを祈る」
「うん」
 彼女は扉に手をかけた。
「あの、イシカワさんとタチコマにお礼、言っておいてください」
「ああ」
「少佐も、ありがとう。付き合ってくれて」
 草薙の口元に、薄い笑みが浮かんだ。
「時空迷子とやらを見てみたかっただけよ」
「普通の一般人だよ」
「みたいだな」
「はは」
 名残惜しいのか不安なのか、彼女は扉に手をかけているものの、閉じるのをためらっているようだ。
「トグサにも、言っておくよ。お前のファンと会ったって」
「なんか、……恥ずかしい、かな」
「そのくらい土産として置いておけ」
「 ――― ありがとう」
 彼女はまっすぐに、草薙の目を見つめた。
 草薙が思わずどきりとするほどに。
「じゃあ、行きます。少佐たちのこと、見守ってますね」
「ああ」
 そう言い残し、彼女は静かに扉を閉めた。
 直後、閉じられた扉がゆっくりと開く。
 個室には、誰の姿も見当たらなかった。
「 ――― 本物だったんだ」
 男子トイレに、草薙の呟きだけが響いていった。
 
 
 

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高萩ともか・作