〜時空迷子 トリニティ・ブラッド編〜
 
 
「どうされました?」
 昼食を買いだしに行った帰り、ふらふらと怪しげな足取りの女をアベルは見つけた。不審者摘発とばかり、だが最初は笑顔で尋ねてみる。
 声をかけられ、彼女は弾けるように振り返る。
 近隣諸国では見かけることのない人種だった。いや、どころか、こんなのっぺりした顔立ちの人種は、もう何百年も見ていないのでは?
 アベルを見た彼女は、コントばりに驚いた。さすがのアベルも、ちょっとショックだ。
「あの、べつに怪物と鉢合わせたわけじゃないんですから、そんなに驚かなくても」
「ああ、ご、ごめんなさい」
「よかった。ローマ公用語は喋れるみたいですね。で。どうされたんです? 怪しい動きを……いやいや、道に迷われたようですが? 旅行者ですか?」
「あたし、旅行は、してなかったと思うんですけど……。というか、あなたがいるということは、ここはローマなんですか?」
「はぁ?」
 自信なさげにわけの判らないことを言う彼女に、アベルのほうが聞き返す。
 彼女は怪訝な顔のアベルを前に、難しい顔をしてひとりぶつぶつと何やら呟いている。とりにてぃぶらっどが何とかかんとかと。
「その、道に迷った、というのは、たぶん合ってると思うんですよね」
「はあ」
 とりあえず、目の前の女に相槌を打つアベルである。
「トイレから出ようと扉を開けたら、いきなりこんな街中だったんです。振り返ったら、あるはずのトイレも手をかけていたドアもなくなっちゃってて、どーしよーって」
「トイレ??」
「そう。入る前じゃなくてよかった」
「はあ、それはようございました……」
「だけど、あたし、ここに来たつもりもないし、あたしの知ってるローマじゃなさそうだし、アベルくんがいるってことはあたしの世界とは違うわけだし、でもどうしてこっちにいるのかが判んないし、どういうことだ?」
 そこにいる誰かを落ち着かせるように胸の前で両手を上下させながら、彼女はひとり考え込みだした。
「どうしてわたしの名前を……って。あぁっ!! もしかして!」
 アベルは何かに気付いたようだった。
「あなたもしかして、時空迷子さんですね!?」
「時空迷子……?」
「ごくたまにですけどいるんですよ、そういう方が。何かの拍子にころんっとこちらに紛れこんでしまうんです。おお、よござんすよござんす。安心してください。わたしってば、ちゃーんと心得てます。帰る扉の場所、知ってるんです」
「そうなんですか!? うわあ、助かります〜!」
 彼女は目を輝かせた。
 
「日本っていう国に住んでるんですか……。う〜ん日本ねえ。聞いたことがあるようなないような」
 元の世界に帰る扉まで、彼女はアベルに案内をしてもらっていた。
「その扉の場所って、ここからまだ遠いんですか?」
「そんなに遠くじゃないですよ。どうしたんです?」
「うん、その、お腹が空いちゃって」
「ええっ!」
 アベルは奇声をあげる。今日の昼食を手にしているのだ、危機感を抱くのは仕方がない。
 彼女は、アベルの心を読んだようだった。
「アベルくんのお昼は取らないって、失敬だなあ」
「ええ? や、やだなあ、そんなこと思ってないですって〜」
「目があさってのほうに泳いでるよ」
「うっ。……そ、それよりもですね、どうしてそんなにも距離を開けてるんですか?」
「えっ」
 彼女は言葉を詰まらせた。顔がひくついている。
 アベルが指摘したように、彼女はアベルから2mばかり離れたところをひょこひょこ歩いていたのだ。
 アベルはそんな彼女の様子に勘違いをした。
「は! わたし、あなたを襲ったりはしませんよ?」
「いやあ……」
 言葉を濁す彼女。
 どうやら、アベルの予想は外れたらしい。
「違うんですか? じゃあ、さっき言ったエステルさんのことを気にしてるんですか? 大丈夫ですって、エステルさんはわたしが女性と歩いてても、嫉妬に狂ってあなたを襲うようなひとじゃないですし」
「えっと、そうなんだけど、そうじゃなくって。あの……ですね、その、わたし、背の高いひとってダメなんですよ。その、……怖くて近付けないのね」
「……。この背、ですか?」
 思ってもない答えに、アベルはきょとんとする。
「えっと、実はそう、なんです。あわわ、ごめんなさい! 男のひとにとって、背の高さって武器ですよね」
「武器、というわけじゃないと思いますが、背の高さが怖いって言われたのは、初めてですねえ」
「すいません、道案内をしてもらってるのに」
「や。気にしてません」
 と言うアベルの肩は、がっくり落ちていた。余計なひと言がいちいち気に障る時空迷子だと、内心思ったアベルである。
 
 他愛もないことを喋りながらしばらく歩き、ふたりは古びた建物の前に立った。
「あそこです」
 アベルは、どこにでもあるような玄関と思われる扉を示す。
「玄関に見えますが?」
「玄関です」
「あのー、アベルくん」
「わたしたちには普通の玄関です。でも、時空迷子さんにとっては、時空の扉なんですよ」
「そうなの? へええ〜、合理的」
「……あなた作家志望なんでしょ? もっとこう、文学的な表現できないんですか?」
「そういうこと言わないの。で? これ、ノックしたほうがいいの? 玄関なんだから、勝手に開けちゃいけないよね? やっぱり鍵かかってるとか?」
「鍵はかかってません。ノックはご自由に」
「押す? 引く?」
「……。開くほうに動かせばいいんです」
「予想に反して、実は引き戸だったりする?」
「引き戸? どっちでもいいじゃないですか」
 どうでもいいことを訊いてくる彼女に、アベルはうんざりする。
「そんな顔しないでよ。自分の世界にちゃんと戻れるかどうか、あたしには大問題なんだから」
「ああ、まあ、そうですよね」
 気がなさそうにアベル。
 彼女は、真面目な顔になって扉に手をかけた。
「じゃあ、行くわ」
「はい」
 あまりにもほっとした顔をしたアベルに、彼女は思いついたかのように、意地悪な表情を浮かべた。
「ねえねえ。最後にひとつ、訊いてもいい?」
「な、なんです?」
「あたしこのまま自分の世界に帰っちゃうからさ、誰にもばれないんだよね。だから、ホントのこと言ってね」
「え? ……はあ」
「エステルさんのこと、好き?」
「 ――― 。ええええっっ!?」
 数瞬の間の後、海老のようにのけぞるアベル。
「どうなの? お土産として教えて? ね?」
 彼女はじっと、アベルの答えを待っている。
 どうやら答えなければ、元の世界に帰る気はないようである。
 自分の胸奥にひっそりと秘めておきたい想いである。いくら時空迷子とはいえ、軽々しくひとに教えられるものではない。
 だが、どうも答えなければならないような気がした。
 隠そうともせず、アベルは激しく悩んで見せた。
「 ――― その……、誰にも内緒ですよ」
「もちろんだとも」
「もしも何かの拍子でまたこっちに来ても、エステルさんには絶っっっ対に言わないでくださいよ?」
「うん」
「教授にも、トレスくんにもケイトさんにも誰にも」
「うん、言わない」
「カテリーナさんにも」
「あぁ〜、絶対言わない」
「もしも言ったら、クルースニク02を40%限定起動ですからね?」
「判った判った。でもあたしきっと、10%でもぷちっとヤられちゃうよ」
「ああ、そんな感じしますね。1%でも危なそうですもんね」
「そうかなあ〜。でもそうかもしれないなあ。……じゃあ、もしもそのときは苦しまないよう一瞬でお願いするわ。というわけで、どうなのよ?」
 せっかく話がそれそうだったのに、彼女はしっかりと元に戻してきた。
 目に見えてがっくりするアベルである。
「ええと……。なら、内緒話、してもいいです?」
 高い背丈が怖いと彼女が言っていたので、耳元に口を寄せる了解をアベルは取る。
 彼女が頷くのを見て、アベルはゆっくりとその耳元にかがんだ。
「エステルさんのこと、……そりゃ、好き……ですよ」
「男女の恋愛感情?」
「う……、ハイ」
 彼女は、花が開くような笑みを浮かべた。
「そっかー。そうなんだ〜。へぇ〜、ほぉ〜、ふぅ〜ん。そっかあ、それを聞いて、安心した。なんか、嬉しいよ。よかった〜」
「誰にも言っちゃいけませんからね!?」
 怖いくらいに真剣にアベル。真剣、というか、必死の形相である。
「判ってるって。そっか……。じゃあ、行くね」
「ホントに、絶対絶対秘密ですからねッ!」
 アベルは強く念を押す。
 彼女は頷く。
「うん。こっちの世界のひとには、内緒にしておく」
「ええっ!? こっちの世界のひとには、って!? それってつまり」
「じゃあね。ありがとう」
 アベルの言葉を遮ってそう言い残し、彼女は扉を開けて、にまにましながらその向こうへと消えてしまった。
 後には、アベルの悲鳴だけが虚しく残ったのであった……。
 
 

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高萩ともか・作