雪に巡る 〜蟲師〜

 雪に塗り込められる山間の里。
 初めてそこを訪れてから、何年経ったろう。
 冬には行かないと言ってはみたが、冬が来るたび、あの姉弟のことを思い出す。
 あれから何年かが経ち、ようやく、立ち寄ってみようと決心がついた。
 ざくざくと雪に沈む一歩。
 数日続いた雪は止み、空は久し振りに眩しい青色を映していた。
(確か、この先だっけか……)
 ギンコは記憶を頼りに、あの家を目指す。
「 ――― あ」
 雪の向こうに、懐かしい家の姿があった。
 

( ――― さて。何としたものか)
 雪を被った家を目の前にして、ギンコはためらっていた。
 特に用事があったわけではなかった。しいて言うなら、ミハルの様子が気になって見に来た、というところだろうか。
(あいつ。ちっとは大人になったかな)
 どこからみても子供でしかなかったあのときのミハル。
 いい加減、多少は落ち着いて蟲たちと付き合っているのだろう。
「……ギンコ?」
 背後からの声に、ギンコはぎょっとする。
 聞いたことのない声。
 この家は人手に渡ってしまったのかと、一瞬思った。
「……おまえ……ミハル、か?」
「やっぱりギンコだ」
 振り返ったそこにいたのは、以前の面影を残しながらも、背も高くなり声も変わったミハルだった。
 その周囲を、ギンコは確かめる。
 いるのは、ミハルひとりだけだった。
「すずは?」
「姉ちゃん?」
「嫁にでも行ったか」
「オレが嫁さん貰うまでは、安心できないって、まだだよ」
 くすりと笑うミハル。
「嫁さんをもらうなんて、いつになるのか判らないのに」
「そうか」
 声変わりを経たとはいっても、ミハルが少年の域を出るのは先の話だ。
「入って。にしても、すっげー久し振りだよな」
 ミハルは言って、ギンコを家に招き入れた。
 

 以前来たときと、家の様子はほとんど変わらない。いや、まったく変わってはいない。
 生活するだけで精一杯な、それだけの家財。
 どれもが大切に長く使われている。
 ギンコとミハルがひとしきり話をしていると、用事で里に行っていたというすずが戻ってきた。
 だが、ギンコの姿に驚きはしたものの感激した様子も見せず、そのまま台所に立って夕餉の支度を始めてしまう。
 少し、拍子抜けする。
 気にならないといえば嘘になるが、仕方がない。
 ちらりと垣間見たすずは元気なようだったし、ミハルとの話もひと段落ついた。そろそろ辞そうかと腰を上げると、里に戻るにももう遅いからと引き止められた。
 予想通りの言葉でもあり、期待していた言葉でもあった。
 いまから里に下りても夜になる。雪も降り始め、旅人が外を行くには障りがある。
 ギンコはミハルの好意に素直に甘えることにした。
 そうして、すとんと幕を落としたように日は落ち、ごくごく当たり前のように3人分の夕餉が出てきた。
(ああ、この味だ)
 何年ぶりかに味わう、すずの手料理。口に広がる旨みが、全身に染み渡る。
「冬には来ないって聞いてたから、驚いちゃったわ」
 意外にも、すずは普通に話しかけてくる。どうやら嫌われていたわけではないらしい。
「俺も、冬に来るつもりはなかったんだがね」
「……ミハルの、ことで?」
 まだ子供だった頃、ミハルは空吹(うそぶき)という蟲に惹かれていた。
 本人から聞いた話によると、去年もまた空吹に誘われたという。
「以前ほどその、蟲……とやらにちょっかいは出してないみたいだけど、それでも冬になると春まがいでしたっけ、そこに踏み入るのはやめられないみたいで」
「去年も厄介になったらしいな」
 ついと天井を見上げ、ぶら下がる空吹の蛹を見遣る。
 今年の羽化は、もうすぐそこにきているようだが。
 ギンコはそのまま視線をミハルへと流す。
 問い詰めるような眼差しに、ミハルはすっと目をそらした。
 ミハルは今年も、春まがいの発生を待っている。
 ギンコが現れたからこそ、よけいにそう思ったらしい。
 ―― だって、倒れた俺を担ぐの、ギンコなら簡単だろ?
 そう言ってのけた。
「さっきも言ったが、あんまり姉さんに心配かけさせんな」
「……判ってる」
 きまり悪そうに、ミハルは汁物をずずっと飲み込んだ。
「本当に判ってるんだか」
 すずは諦めきれない顔をした。
 ミハルの気持ちが判らないでもないギンコは、何も言えなかった。
 ――― その2日後、空吹は羽化し、ミハルは春まがいの地へと姿を消した。
 引き止められていたギンコは、頃合いを見計らってミハルを迎えに行き、眠る少年を肩に担いで戻ってきた。
 

 毎年繰り返されるこの光景にも慣れたのだろう、すずの表情は最初に出会ったあの冬よりも、ずいぶんと落ち着いているように見えた。
「ギンコがいてくれて、助かったわ」
 夜の闇に閉ざされ、囲炉裏の灯を受け眠るミハルを見つめながら、ほのかにすずは笑む。
「去年の冬は、この子を担いで戻ってくるの、すごく大変だったから」
「こいつ、でかくなったからなあ。雪も深いし、俺でも難儀したよ」
「もういい加減、あんな蟲のこと忘れればいいのに」
 小さな少年ではなくなったミハル。それなりに働けてはいる。姉弟2人が食べていけるだけの冬の蓄えも、ちゃんとできるようになった。
 ミハルの空吹への憧憬は、すずにとっては悩みの種でしかなさそうだ。
「この前、ミハルが言ってたのは」
 ギンコは眠るミハルに視線を流した。
「春まで眠っていれば、そのぶん食い扶持が減るだろうって」
「な……にそれ……」
 信じられないようにすず。
「そんなこと気にして、こんなことしてたの……!?」
「そればかりじゃないがな」
「まだ他にも?」
 興奮するすずに、ギンコは首を振る。落ち着け、と。
 すずは眉間に深いしわを刻んで、ギンコの言葉を待つ。
 ギンコはひとつ息をついて、口を開いた。
「何て言えばいいのか。おそらくこいつは、空吹に魅入られたんだろうな。いつかは諦めがつくかもしれんが、それまではこうして毎年冬に眠り続けるしかない」
「そんな……」
「時を待てば、いずれミハルにも判るだろうさ」
 ミハル自身も、もういい加減やめなければと言っていた。
 姉に深い心配をかけていることは、痛いほど判っているようだった。
「こいつも、随分と大人になったみたいだし」
 眠る顔は驚くほどあどけない。けれど、姉を支えようとする気持ちは、充分に大人のものだ。
(大きくなったな……)
 囲炉裏に差し出していた葉巻を口に運びながら、ギンコは思う。
 たった数年も、少年が大人になるのには充分な時間だ。
 ミハルを挟んだ向こう側にいる娘の気配に、ギンコの意識は移る。
 娘だって、大人になる。
 弟をはかなげに見守る彼女のうなじが、目に入った。
 白く、なめらかで透明な首筋は、控えめに襟元へと沈んでゆく。
 匂いたつような静かな美しさが、そこにはある。
 視線を感じたのか、すずが目を上げた。
「 ――― ?」
 眼差しでギンコに視線のわけを問うてきたが、ギンコは答えることなくじっとすずを見つめ続けた。
 すずは、幾つになったのだろう。
 妙齢の娘だ、里では言い寄る男もいれば、是非嫁にと請われることもあるのだろう。
 ミハルが嫁をもらうまで独りでいるなど、そんなもったいないことあっていいはずがない。
 ミハルは ――― 深く眠り、春まで目覚めることはない。
 すずとギンコを置いて、勝手に眠りの世界へ抜けてしまった。
「……寝る支度をしなくちゃ」
 ギンコが何かを言う前に、すずは腰を上げた。
 行き場を失った言葉を、葉巻の煙とともにギンコは呑みこんだ。
 

 すずが寝支度をする間、ギンコは厠へ立った。
 外界の冷気に身震いしながら部屋に戻ると、うまく閉めきれてなかったのか、戸の隙間から行灯の明かりが洩れていた。
 そっと、気配を消して部屋の中を覗いてみる。
 こちらに背を向けて、すずはいそいそと寝巻きに着替えていた。
 着替えるといっても布子を1枚脱ぐだけだったが、襟を直す仕草、裾を気にする様子が初々しく、新鮮だった。
 彼女の白く透明なうなじ。小さな肩。細い腰 ――― 丸い尻。
 背中ごしからも判る、胸のふくらみ。
 静かに座っている、ただそれだけのことが、闇に揺らめく炎にようになまめかしい。
 決して壊してはならない繊細なものが、すぐそこに潜んでいた。
 外は降りしきる雪。里から離れている家。
 そして、春まで目覚めない少年。
 いま、この夜、息づいているのはふたりだけ ――― 。
 ギンコは、音を立てて戸を引いた。
「!?」
 驚いて振り返るすず。
 不意をつかれたその表情に、ギンコからためらいがするりと抜け落ちる。
 吸い込まれるように、すずのもとへ膝をつく。
 差し伸べた手は彼女の頬を包み、そのまま唇を寄せた。
 潤んだすずの唇は震えていて、ほんのりと温かい。
 抵抗されるかと思った。
 けれどすずは、身をこわばらせながらも、ギンコにすべてを委ねている。
 それが逆に、ギンコを我に返らせた。
(こんなこと、俺はしちゃいけない)
 虚しくからまわりする自制の言葉を懸命に繰り返しながら、ぎこちなくギンコは顔をそらす。
 脱力したように、すずは俯いた。
「 ――― 里に、いいひと、いるんじゃねえのか?」
 思ったよりも険のある声になった。
 すずを責めることなんてないのに。
 そう思いながらも、乾いた声は雪の静寂へとしみこんでゆく。
「どうして、何も抵抗しない?」
 ただ、首を振るすず。
 名残惜しく離せないでいるギンコの手は、すずの肩の震えを受け止める。
「わたし……、ずっと逢いたくて……」
 切なさを募らせた声に、どきりとする。
「ギンコに、ずっと逢いたかった」
「……」
 ギンコはふと気付く。
 ミハルが嫁をもらうまでは安心できないというすず。
 それは建前であって、本当は別のところに理由があったのでは?
(もしかして、すずの中に俺がいた、と……?)
 すずの言葉が、ほんの僅かな身じろぎが、ギンコの自制心を強く揺さぶる。
(だめだ……!)
 懸命に自分と戦うギンコ。
「……いい話があるのなら、里に、嫁に、行くべきだ」
 すずははっと顔を上げた。
 こちらをじっと問い詰めるような眼差しが、締めつけられる胸に痛い。
「 ――― そんなの、判ってる」
 沈黙の後に続いた言葉は、無責任な自分を責めるようでもあり、秘めていた想いの吐露でもあった。
「判ってたけど、 ――― できなかった……」
 胸の奥の何かを崩すひと言だった。
 たまらず、ギンコはすずを軽く向こうへ押しやり、背を向ける。
 その一連の動作がすずを傷付けてしまうと気付いたが、一瞬遅かった。
 けれど弁明の言葉は見つからず、ただ沈黙ばかりをしか返せない。
 何かを言わなければ。
 そう言葉で考えることすら、苦しくてならない。
 ふと、視界の隅に、梁の空吹があった。
 蟲 ――― それが、ギンコの抱える現実でありすべてだ。
 たとえ、誰かと想いが通いあっていたとしても。
「俺は、ひとつのところに長くいられない」
 蟲を寄せてしまう体質だと、以前彼は言っていた。すずはふたりの間にある楔を思う。
「ここに立ち寄れるのも、年に数度あればいいほうだ」
「……」
「里の誰かと一緒になったほうが、幸せなんだよ」
「……」
 ただ、すずは首を振る。
「 ――― 明日、ここを出る」
「ギンコ……!」
「こんなこと、するつもりじゃなかったんだ。本当に、ただ……」
 ギンコはきつく目を閉じる。
 そうだ。
 こんな簡単なことだったのに。こんなにも当たり前な想いだったのに、どうして目をそらし続けていたのか。
「ただ、おまえに逢いたいと……。 ――― !?」
 背中から、すずがしがみついてきた。
 しなやかな腕が絡まり、丸く甘い感触が、背中にぶつかる。
「行かないで」
「おまえの幸せを、俺に求めちゃいけない」
「どうして?」
「俺は一生、放浪しなきゃならんさだめなんだ」
 背中で、すずは泣いた。
「俺の勝手で、迷惑をかけた。悪いことを、した」
 できるなら、このまますずを奪ってしまいたい。
 全身に感じる感触は、あまりにも甘い誘いだった。
 必死ですずが訴えているのが判る。きっと、こうして何かを訴えるのは、後にも先にも二度とないだろう。
 羞恥心も何もかもを捨てて、必死にギンコを引きとめようとするさまは、いじらしくて狂おしく、愛おしい。
 このままでは、ギンコの自制心が続かない。
「今日は向こうで寝るよ」
 ギンコは土間に続く戸を見遣る。
 初めて出逢ったあの夜、眠りについた場所だ。
 同じ部屋で眠りにつくことは、きっとできはしまい。
 ギンコを抱きしめる腕に、すずが力を込めた。
「わたし、ギンコが一生旅をし続けなくちゃならないのなら、わたし、ギンコの帰ってくる場所になる」
「……!」
「里の誰かに嫁いでも、ちっとも幸せじゃないよ。いままでだって、ギンコのことを考えてた年月のほうが、ずっとずっと幸せだった。何年かに一度でいい。顔を見せてくれるだけでいい。わたしの幸せを、里の誰かに押し付けないで……お願い……」
 僅かに力を加えれば折れてしまいそうなすずの腕。ひじから肩へと肌を辿ると、てのひらだけで包みこめてしまう。
 すずの想いは途方もなく深く、そしてギンコもまた同じようにこの数年、餓えるほどにすずを想っていた。
 ギンコはすずの肩をぐいと引き寄せ、布団に倒した。
 言葉もなくギンコはすずを求め、すずは静寂の夜に、甘く鳴いた。
 

 ギンコがすずたちのもとを去ったのは、蟲が寄り付くぎりぎりの時が過ぎた頃だった。
 しばらく続いていた雪もやみ、雲間からは青空が顔を覗かせていた。
 ギンコがここを訪れたのも、こんな天気だった。
 ほのかに暖かみを帯びた日差しだが、それでも春は、まだまだ遠く先にある。
「ミハルが目を覚ます頃に、来れるかもしれんが……はっきりとは言えない」
「うん。判ってる」
 単なる放浪者ではなく、蟲師を生業としているギンコ。そう思うように都合がつかないことくらい、すずにも判る。
 ただ、そうやって気をかけてくれることが嬉しくて、切ない。
 雪がうず高く積もった庭先で、ふたりは別れを惜しむ。
「もしも……」
 これだけは言っておかねばならない。ギンコは言いたくない気持ちを叱咤する。
「もしも俺以上のヤツが現れたら、遠慮しなくていいから」
「そういうこと、言わないで」
 ふくれ面になるすず。
「でも、うんって言うことでギンコが安心できるんなら、うんって言うよ」
「……やっぱ、前言撤回するわ」
「なにそれ」
 顔を引きつらせたギンコに、すずは笑った。
「じゃあ、また、な」
「ん」
「ミハルによろしく言っといて」
「うん。……気をつけて」
 いつかのように手を振るすず。けれど表情は、比べものにならないほどすっきりとしている。
 すずに応えてギンコも手を上げた。
 あのときは気がかりばかりが胸にあったが、いまは不思議と安堵が広がっていた。
(帰る場所ってのは、こういうことなのかな……)
 さくさくと雪を踏みながら、ギンコは思った。
 背中の向こうに消えた家では、きっとまだすずは見送っているのだろう。
 こんな感触は、言いようもなくくすぐったかった。
 いつもにも増して、早く春が来るといい。
 ――― そう、思った。

     '06/07/21   高萩ともか・作

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あとがき
 
もう少し、踏み込んで書ければよかったです。
ギンコとすずの性格を思うと、これが精一杯かもしれませんね。
それにしてもすず……一世一代の大勝負、頑張ったね。