2/14という世間でバレンタインデーと呼ばれる日。
今年は去年や一昨年とは違う意味で、火原は朝から緊張していた。
星奏に入った1年のときは、中学とは違う音楽科クラスの雰囲気や、校舎が離れている普通科の馴染みの薄い生徒たちの存在で、「今年こそはチョコレートをもらえるのかも !?」と、淡い期待と強い緊張感の中にあった。
2年のときは、1年のときに玉砕で激しい落ち込みっぷりを見せてしまったせいだろうか、同じクラスの女子たちが憐れみチョコをくれたこともあった。「もしかして実は本命チョコなのかも !?」と期待してしまったが、すぐに彼女たちが柚木の親衛隊員ということを思い出してしまった。
毎年毎年、バレンタインには嬉しい思い出はない。
(でも! でもッ!)
火原は胸に弾けるような期待を押し込めながら、星奏学院の門をくぐる。
目が、不自然なほど挙動不審に周囲を探す。
(香穂ちゃん……!)
今年こそは、もらえるかもしれない。
もらえるかもしれない、ではない。
(香穂ちゃんから、もらいたい!)
学内コンクールで知り合った、普通科の1コ年下の彼女。
ただのコンクール出席者同士という、通りすがりな関係だけでは、ない、と、――― 信じてる。
確かに、彼女を想ってるのは自分だけではないだろうし、それに彼女はまったくイノセンスに笑顔と気配りを周囲に与えて、男子の心を密かにかき乱している。
あの眼差し、あの笑顔、あの声。
すべて、全部が、自分だけに向けられて欲しい。
今日、この日、本命という形でチョコレートをもらいたい。
(香穂ちゃん……)
だが、校門からの道のりで、香穂子の姿を見つけることは、できなかった。
そうして一歩一歩を踏みしめるようにして辿り着いた自分の下駄箱の前に立っても、――― その中に火原が期待するような物体は入っていなかった。
何でもない顔を装いながら、それとなく机の中を探ってみる。
思わず、溜息が出てしまう。
チョコレートらしき物体は、どこにもない。
「火原くん」
クラスの女子が、落胆を隠しきれていない火原に声をかける。
もしやと思い、勢いよく顔を上げるが、去年憐憫チョコをくれた柚木親衛隊員のひとりが、苦笑いをしながら指で小さな箱をつまんでいた。
「そんな顔しないでよ。柚木さまも気にしてらっしゃるんだから。火原くんがチョコを1個も貰えないのは、友人としても悲しいって」
「う……うるさいなぁ」
もしかすると、去年のあのチョコも、柚木のひとことで貰えただけなのではないだろうか……?
(キレイに着飾っても、女子って悪魔だ)
はい、と差し出されるチョコレートに、しかし火原はそっぽを向く。
「いいよ。今年は憐れみチョコなんていらないから」
「? へぇ。意外な反応」
「そこまで、飢えちゃいない」
「……。……。……、あ、そっかぁ。欲しいのは、そりゃあ本命だけだもんね」
すべてを見透かすように、女子はにんまりした。
真っ赤になる火原。
「火原くんも成長したじゃないの。でもま、受け取ってよ。女の子って、チョコを1個も貰えないような男より、たくさんのチョコをもらう中、自分の本命チョコだけを受け取ってもらうってのに、うるうるきちゃうものだからさ」
「……」
それは自分の願望ではないのか? という言葉を火原は飲み込む。
結局。
その日1日、普通科の生徒が音楽棟にやっては来ないか胸を騒がせ、普通科の制服を見るだけでも息が止まった。
期待と落胆を繰り返しながらも、火原は何事もなく放課後を迎えてしまう。
女々しいと思いながらも、屋上でトランペットを吹いて時間を過ごした。
トランペットを吹いていると、もやもやとした焦燥感や落胆が、少しずつ癒されてくる。
夕暮れが深くなる前に、火原は吹くのを切り上げ、幾分すっきりした気持ちで家路についたのだった。
翌朝。
いつもの登校風景のはずだが、やけにカップルが目につくような気がする。
バレンタインの翌日だから、仕方がないのだろう。
音楽科と普通科の制服のカップルが多いような気がするのは、……たぶん気のせいではない。
あのコンクールから、音楽科と普通科の間にあった見えない壁のようなものがなくなってきているから。
本当だったら ―― 虚しい妄想だったが ―― そこに自分と彼女の姿も混じっていたはずなのに。
と、いまさらどうしようもないことを考えながら歩いていると、ふと、校門にもたれて人待ちをしているらしい生徒を見つけた。
普通科の、女子の制服だ。
火原は、こくんと乾いたつばを飲み込む。
たまらず、駆け寄った。
違うかもしれない。相手は自分じゃないのかもしれない。
でも、足は止まらなかった。
「香穂ちゃん」
その声に、彼女はこちらに気付いてくれた。
火原を見る顔が、ぱっと明るく輝いた。
「火原先輩。おはようございます」
「おはよう!」
たった1日姿を見かけなかっただけで、 ―― そんなこと、これまで何度もあるのに ―― こんなにも逢えて嬉しい。
「どうしたの? 誰か……待ってる、とか」
「いえ、あの。先輩を、待ってたんです」
「え」
どうしてこう香穂子は、傷口に塩を塗りこむような笑顔を返してくるのだろう?
香穂子とは、友人として他愛のないことばかりを喋る間柄だ。
自分の気持ちを果たして彼女は、知っているのだろうか?
もしかして、誰かと付き合うことになったという報告なのだろうか?
(相手は? 誰? 土浦とか月森とか?)
音楽科3年、トランペット専攻の自分よりも、彼らのほうが香穂子との接点はあまりにも多すぎた。
歩き出した香穂子の横を、自分をもてあましながらもとにかく並んで歩を進める火原。
(おれ、一緒にこうして歩いててもいいのかな)
思いながらも、けれど離れたくはなかった。
「 ――― あの、これ」
知らず眉間を暗くしてしまっていた火原に、唐突に紺色の箱が差し出された。
意味が判らず、火原はきょとんと面食らう。
「1日、遅れちゃいましたけど」
ばつが悪そうに、香穂子の声は小さい。
「え?」
そう思って周囲に意識をやると、そこはひとの波から外れた木立の間だった。
ためらうように差し出されている箱を持つ香穂子の指が、小さく震えている。
「えッ?」
がらがらと、いまのいままでの自分の暗い妄想が崩れ落ちる。
これは ――― 。
「あたし昨日、風邪で休んじゃって……、いまさらかな、とは思ったんですけど、やっぱり渡したくて」
「え」
それしか、言えなかった。
(風邪……ひいて……休んで……。昨日?)
火原の中を、昨日体験したすべての感情が嵐のように駆け抜け、荒れ狂った心のひだを得心がひとつひとつ沁みわたるように癒していった。
熱い吐息が溢れ出た。
「その……風邪。大丈夫なの?」
「治りました。でも、ホントだめですよね、どうしてよりによってバレンタインに風邪なんてひくんだろ、あたし」
香穂子の目が、不安げに火原を捉えた。
「もう、あたし、遅いですか?」
火原は大きく首を振る。
「そんなこと、そんなことないよッ。遅くなんか、そんなことないってばッ!」
火原は箱を両手でがっしりと掴んだ。
「ありがとう、すっげェ嬉しい!」
「あ……、よかった……」
香穂子はほっと息を吐き出し、表情を和ませた。
緊張していたのだろうか、肩から力が抜けている。
胸に手をあて安堵しているその様子があまりにもかわいくて、たまらず抱き締めたくなってしまう。
火原は全身全霊の自制心を総動員して、何とか自分の欲望を抑えこむ。
手の中にある紺色の箱に目を落とした。
艶やかな紺の包装紙に、控えめな金色の縁どりが施された同色のリボンが十字に結んである。
手作りに、見える。
ということは。
「香穂ちゃん……、これ、って」
本命って考えてもイイの?
そう直接尋ねるまではできなかったが、香穂子はほんのり頬を赤らめて、小さく頷いた。
「うわぁ……、おれ、いままで生きててよかったぁ」
「火原先輩、それは言いすぎですってば」
「そんなことないよ、だって」
「そんなことあるぞー」
突然降ってきた第三者の声に、火原と香穂子は文字通り飛び上がった。
振り返ると、すぐそこに音楽教師の金澤が立っていた。
「生きててよかったって思うのは、ホームルームに間に合ってからにしろ」
「え?」
「せ、先輩、もうこんな時間です!」
腕時計を確認した香穂子の声が裏返る。
朝のホームルームが始まるまで、あと数分もない。
さすがの火原も青くなる。
登校時間はいつも遅めの火原だ。香穂子からチョコを受け取って天に昇っているゆとりなど、なかったのだ。
「うわあ〜! 助かった金やん、やっべ〜! 行こう、香穂ちゃん!」
「あ、はい。それじゃあ失礼します、先生」
ぺこりと頭を下げて、香穂子は火原のあとに続く。
ばたばたと慌てるふたりの背中を見送りながら、金澤紘人は紫煙を吐き出した。
「おれだって、そういう時期くらい、あったさ……」
誰に聞かせるでもなく、義理チョコひとつも貰えなかった金澤は、ついついぼやいてしまったのだった……。
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