毎日や毎週というわけではないが、香穂子は南楽器で土浦と曲を合わせることがある。
試験があるわけでも、校内で発表を控えているわけでもなかったから、コンクール経験者とはいえ高校の練習室を借りるのは憚られたせいだった。
ただふたりで曲を奏でて、一緒の時間を過ごす。
それだけといえばそれだけだ。
けれど、その数時間は香穂子にとって何物にも代えがたい珠玉の時。
心潤む、幸福な時間だった。
構えるのは魔法のバイオリンではなくなっても、香穂子のそんな満たされた心の動きが、メロディーとなって滑らかに曲を奏でてゆく。
「いまの、すごくよかったよな」
一緒に合わせていた土浦が、目を輝かせて香穂子を見上げてきた。
「やっぱり、そうだよね?」
「ああ。鳥肌立つかと思った」
ほんのワンフレーズだけだったが、ふたりの息がぴたりと合い、奏でられた曲が勢いをもって花開いた感じがしたのだ。
土浦が、ほんのりと眼差しを柔らかくさせた。
「ずいぶん、巧くなったよな」
「あたし? まだまだ、全然だよ」
「残念ながら技術的なことじゃなくてさ。その、気持ちの持っていきかたというか」
「ほんと?」
「ああ。技術的な問題が大きく立ちはだかってるってのは、否めないけど」
言われ、香穂子は溜息とともに肩を落とす。
「大いに苦労してます……」
「そりゃそうだ。始めて間がない日野がすらすら弾けちまったら、世の中のプロはみんな発狂してるよ」
「……そうだよ、ね」
コンクールのことを、香穂子は思い出す。
リリから授かった魔法のバイオリンで、香穂子はさまざまな曲を奏でた。普通科の目立たない女子がいきなり演奏者として選ばれたのだ。音楽科の生徒たちは、どれほど悔しさを感じたことだろう。
それでも結果的に彼らに受け入れられた自分は、幸運なのだと思う。
「音楽を職業にするのって、大変だものね……」
何気なく呟くと、土浦が反応する。
「柚木先輩たち、どうするんだろうな、進路」
コンクールも終わり、3年である彼らの先にあるのは、受験という大きな関門。
どんな進路を選ぶのか、彼らは具体的なことは教えてくれない。
このまま星奏の音楽部にあがるのか、別の音大に行くのか、それとも音楽とは関係のない道を選ぶのか。
「土浦くん、何か先輩たちから聞いてる?」
「いや。何も」
そうか、と、香穂子は胸の内で呟く。
彼らは、土浦にも何も言っていないのか。学科が違うからこそそれなりの親睦があって、だから、何か聞いているかもと思ったのだ。
「ね……、柚木先輩は、どっちに行くと思う?」
「どっち、って?」
「音楽か、それとも家の……方面とか」
柚木家の事情を理解しきれていない香穂子は、言葉を濁らせる。
土浦は表情をしかめながら、うーんと唸る。
「音楽を選びそうな気はするな。家のこととか複雑みたいだけど、たぶん、自分の人生だしな」
「土浦くんもそう思うんだ」
「ってことは、日野もか?」
「うん……。じゃあ、火原先輩は? どうだと思う?」
「日野はどう思う?」
軽く身を乗り出した香穂子に、今度は逆に土浦が問い返す。
香穂子はほんの僅か、口をつぐむ。
「あたし。……たぶん火原先輩、音大には行かないんじゃないのかなって思うの。音楽とは違う学科を選ぶんじゃないのかな、って」
「そうだな……」
土浦は椅子の背もたれに背中を預けるように、軽く伸びをする。
「火原先輩は、ほんとに音楽が、トランペットが好きみたいだからな。大学でもああだこうだと音楽理論とかを叩き込まれるのは、なんてーか、苦痛っぽいというか」
「うん。毎日落ち込んじゃいそう。……って言っちゃうのは、失礼かな」
「本人には秘密な」
意地悪そうに笑む土浦。その微笑みが、ほんの僅かここではないどこかをさまよう。
「火原先輩は、本能で音楽を楽しめるタイプだよな。日野と、似てる気がする」
「え。……あたし、と?」
「ああ。音楽に対する姿勢というか、気持ちというか」
火原のようにまっすぐに音楽に向き合う姿を羨ましくも感じていた香穂子は、土浦の言葉に少しだけ、気持ちが潤んできた。
「日野は、音大行くんだろ?」
「…… !?」
思いがけない発言に、香穂子は目を瞠る。
それは、誰にも相談すらしたことのない秘めた本心だった。
バイオリンに対して、自分はあまりにも未熟すぎる。学内コンクールを経、いまこうして、ようやくスタートラインに立てたばかりでしかない。
そんな自分が、いまさらになって音楽を学問としても学びたいと思うのは、調子に乗っているようで、遅すぎるような気もして、少し、気が引けていた。
だから、誰にも言えなかった迷い。
それを土浦は、いとも簡単に ―― それも何でもないことのように ―― 言い当ててしまう。
土浦は、ピアノの横で固まってしまった香穂子に続ける。
「日野って意外と、プロでやってけそうなんだよな、おれの中では」
「ええ…… !?」
プロ。
その単語に、香穂子は更に言葉を失う。
軽く土浦は笑み、ぽろりぽろりと、指先で何かのメロディーを奏でる。
「プロじゃなくても、演奏家としてやっていく気がするんだ」
ほのかに笑んでいた土浦の表情が、一瞬、すっと真剣になる。
「そのとき、デュオとして一緒にいるのがおれでありたいって、そう思ったりしてな」
「……土浦くん……」
戸惑う声を隠しきれない香穂子に、土浦は笑みを戻す。
「おまえ破天荒だし、何しでかすか全然判んないだろ? 他の奴じゃ務まらないよ」
「え。ちょ。……それって。もしかして莫迦にしてる?」
そう口に出しはするものの、胸の内はそうでないと判っていた。
「さてな。でもま、それも日野のいいところだから」
「……」
さりげない言葉に思わず顔が赤らんでしまう香穂子。自分で言って照れくさかったのか、土浦は少し乱雑な手つきで楽譜を整える。
「じゃあ、もっかい最初から行くか」
香穂子から視線を外し、土浦は胸の前で組み合わせた指を曲げ伸ばしする。
そんな土浦が、香穂子には愛しい。
いつものどこか超然とした雰囲気が、まるで少年のようにまっすぐになっている。
微笑みを浮かべ、香穂子は頷き、バイオリンを構えた。
アイコンタクトで、演奏は始まる。
奏でられる、二重奏。
鈴のように転がるピアノの音色。導かれるようにしてかぶさるバイオリンの調べ。お互いの音色が、相手の音色をより一層引き立ててゆく。
香穂子はふと、目を伏せる。
身体中で感じる、土浦のピアノの世界。
まぶたを閉じたそこに、明るい光景が現れた。
それは、照明に浮かび上がる舞台だった。
舞台中央にはピアノが置かれ、寄り添うようにして、バイオリンを奏でる香穂子がいた。
舞うようにピアノの鍵盤で指を踊らせるのは、土浦だ。
ふたりとも、高校生ではない、大人の姿をしていた。
(ああ……)
香穂子は、胸の内で吐息を漏らす。
これは、未来の姿だ。
未来の姿が、見える。
『デュオとして一緒にいるのがおれでありたいって』
先程の土浦の言葉がよみがえる。
(うん……)
香穂子を、熱い想いが心地よく満たしてゆく。
(あたしも、そう思う)
一緒に、こうして演奏をし続けていたい、と。
ずっとずっと、土浦のそばにいられたら、と。
香穂子の想いは音色に乗り、ピアノの調べにぴたりと添う。
再び、先程のようにふたりの演奏は高まりあい、ひとつになった。
胸震わせる心地よい感動に、香穂子はえもいわれぬ幸福を味わう。
土浦と、一緒に 。
音楽の世界を ――― 。
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