見られている。
あからさまな視線を感じ、金澤は隣の香穂子に目をやった。
「なに? 顔になにかついてる?」
「ううん。そうじゃなくて」
「いまさらながらおれの顔に惚れ直したとか?」
「でもなくて」
さらりと残酷なことを言う香穂子。じっと香穂子は金澤の口元を見、その動きとともに視線は膝へおろした手へと移っていく。
「今年は言わないんですね。『今年度こそ禁煙するぞー』って」
金澤の声真似をする香穂子。煙の名残を吐ききる金澤は、むせそうになった。まさか毎年の禁煙宣言を覚えていたとは。
確かに毎年、新年度にあたって禁煙を誓っていたりはする。けれどそれを宣言する日は、いつも同じである。
「エイプリールフールに宣言したって、意味ないだろ?」
「やっぱり狙って言ってたんだ」
ばれていたか。
「だから今年は言わないの。というか、禁煙はもうしない」
「―――開き直っちゃうんですか?」
口をあんぐりとさせる香穂子。そんな顔すらかわいい。このかわいさは、罪じゃないかと思う。
「この年になると、無理するのはつらくてね」
「年齢を言い訳に使うのは、ずるいです」
小さく拗ねてみせる香穂子。こういう仕草こそ、ずるいと思うのだが。
金澤は、ふと笑むと、煙草を灰皿に押しつけ、肺の煙を吐き出した。
「無理をするのはつらくてね。欲望に任せることも必要なんじゃないかって」
「え」
金澤は香穂子の手から文庫本を取り上げ、テーブルに放る。隣に座っていた香穂子の身体が、びくりとこわばりを見せた。それがいっそう欲望に火をつけてしまうとも知らず。
のしかかる金澤に、戸惑う香穂子。ここから先の展開は初めてではないけれど、こういったかたちで進められるのは初めてだ。
「えと、あの、先生……」
「『先生』はナシ」
「ここ、ソファですけど」
「知ってるよ」
リビングのソファで音楽を聴きながらくつろいでいたのだから。
「あの、その」
身体を触れる金澤の手に、香穂子が困った声をあげる。
焦る香穂子も、そそられる。
だが―――。
「―――そんなに怯えた顔すんな」
金澤は香穂子の隣に座り直した。優しく彼女の髪を梳いてやる。少し、からかいが過ぎたか。大学生になったとはいえ、彼女は愕然とするほど純粋すぎるところがある。その純粋さは征服しがいもあるのだが、かといって一方的に穢していくなんてできるはずもない。
結局、惚れた弱みでなにもできない。
「先生のいじわる」
乱れた衣服を整えながら、香穂子は拗ねる。だからその表情がいけないんだと金澤は内心で訴える。
「今日は4/1だから、どうとでも」
「……。……。…………。ここでもいいと思ったんだけどな」
「えッ ! ! 」
思いもよらない香穂子の発言に、ソファから飛び上がってしまった金澤。
「だってエイプリールフール……」
意趣返しとばかりにぼそりと呟く香穂子。
「お。おまえねぇ……!」
まともに反応してしまった自分がちょっと悲しい。
だが、香穂子の表情からはさきほどの怯えは消えてなくなっていた。だから、彼女のエイプリールフールに乗ることにした。
軽やかな笑みを残し、香穂子は冷蔵庫に向かう。冷蔵庫には、香穂子が「痩せるから!」と敢えて飲んでいるミネラルウォーターが常備されている。
ソファに座り直した金澤は、テーブルの煙草に手を伸ばし、はっとその動きを止めた。
(やばいやばい)
さっきの1本で、煙草はやめるつもりだったのだ。
数日前、風邪でもないのに香穂子が軽く咳き込んでいるのに気付いた。その直前まで煙草を吸っていた金澤はヒヤリとしたのだった。
もしかしたら、自分や部屋に沁みついた煙草の煙が、香穂子の喉を傷めてしまっているのではないか、と。
(もういい年だからな。アイツのことも、考えないとな)
自分のための禁煙はするつもりはなかったが、大切な存在を守るためなら、煙草をやめるくらい軽いものだ。
『もう禁煙はしない』
今年の、エイプリールフールの嘘は成功だ。
成功させてみせると、金澤は強く心に決めたのだった。
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