故郷へと逃げ帰る乗合馬車の中、ひとりエマの胸は空っぽだった。
空にしないと、いろんな想いがこみ上げてきて、おかしくなってしまいそうだったから。
汽車に乗ってしまえば、後には戻れない。
だからこそ、早く駅に行きたかった。だからこそ、引きずるように、胸が重たい……。
――― 駅構内は混みあっていた。
やめるならいま。
そんなためらいや心残りと葛藤している間に時間は迫り、いつの間にか、ホームは驚くほど空いてしまっていた。
エマは後ろ髪を引かれつつも、時間に背中を押されて二等客車へと行くしかない。
「エマさん!」
突然、聞いたことのある声がホームに響いた。
ここで耳にすることはないと思っていた声が、名前を呼ぶ。
まさか、と思いながらエマは振り返った。
「ジョーンズさん……」
走ってきたのか、彼の髪は乱れ、息も荒い。
まっすぐ向けられる彼の眼差しは、エマの固まりきらない気持ちを揺らす。
「行かないで下さい」
エマは、静かに首を振る。
ここに留まる理由がない。ウィリアムへの気持ちだけで残れるほど、ロンドンは優しくはないのだ。
「行って欲しくないんです」
エマは俯き、それでも首を横に振る。彼女が頑なな態度をとる理由が判るからこそ、ウィリアムはやるせない。
エマは駅員に促され、乗車しようと足を踏み出した。
「待って!」
その腕を、ウィリアムは掴む。
「手を、離して下さい」
「できません」
「もう発車ですよ」
駅員が困った顔で声をかけた。
「どうぞ。乗りませんから」
ウィリアムは、有無を言わさぬ口調で素早く答えた。駅員は困惑するエマと決意の固い表情のウィリアムを見比べると、客車の扉を閉めてしまった。
「待って、わたし」
「エマさん、だめだ」
「ジョーンズさん、――― あ」
駅員の合図の後、汽車は音を立てて動き出した。
故郷へと向かう、乗るはずだった汽車が。
エマは言葉もなくたたずみ、気持ちをここに置いたままに去り行く汽車を、見送るしかなかった。
ウィリアムはそんなエマの手を、そっと離す。
腕を取られていたことすら忘れていたのか、エマはその感触にウィリアムを振り返った。
「どうして、こんなことなさるんですか?」
「あのまま離ればなれになっていたかったとでも?」
「――― それで、いいんです」
「……」
「ジョーンズさんのお気持ちも、わたしの想いも、どうしようもありません。きっと、奥さまが亡くなられたのは、身の程をわきまえなさいという神さまからの警告だったんです」
エマは言えなかった。
こうやってウィリアムが追いかけてきてくれたことが、本当はとても嬉しくて言葉にならないと。
「こうするしか……ないんです」
「僕には……、それでもあなたが必要なんだ」
「わたしでは、いけません」
エマはウィリアムの視線を避ける。
「ジョーンズさんには、もっとふさわしい方がいらっしゃるはずです」
「そんなこと、言わないで下さい」
ウィリアムの脳裏に、エレノアの姿が浮かぶ。
痛いほどに突きつけられる現実。どうあがいてもふたりの間に厳然と立ちはだかる身分という壁。
判っている。だからこんなにも苦しいのだ。
ウィリアムは、ためらいを振り切るように言った。
「僕は、変えてみせます」
あまりにも真摯なウィリアムの眼差しに、エマは吸い込まれる。
「いますぐ……というわけには、いかないでしょう。でも、エマさん。―――迎えに行きます」
「―――!」
「一方的な気持ちの押し付けになるかもしれない。いつになるかも判らない。だから、待たなくてもいい。でも、必ず、必ずあなたを迎えに行きます」
ウィリアムの言葉にエマは打たれた。身体中が震え、手にしていたスズランが、はらりとホームにこぼれる。
エマの見開かれた目から、透明に澄んだ涙が溢れ、頬を伝った。
「いまの僕には、何もない。あなたをいまここで奪い去っても、きっと悲しませて苦しませてしまう。すべてを整える時間が欲しい。だから……、約束します。必ずあなたを迎えに行くと。たとえあなたが待っていなくとも、必ず迎えに行きます」
それは、エマの決心を崩す言葉だった。
もう、止められない。堰を切ったように、エマは泣き出した。
ひと気の少なくなったホームに、エマの泣き声がしみ渡る。
ウィリアムは、エマを抱き寄せた。
「僕たちの間にある壁は大きくて高い。でも、決して乗り越えられないわけじゃない」
「―――……ます」
「え?」
「わたし、待ってます。ずっとずっと。おばあさんになっても、ジョーンズさんを待っています」
「エマさん……」
できることは、待つことだけ。
「いつか、忘れられてしまっても、それでもわたし……待っています」
「――― ありがとう、エマさん」
エマはウィリアムの胸に身体を預けた。
これが最後の抱擁になるのかは判らない。
けれど、この別れを永遠のものにはしないというウィリアムの気持ちは、萎えそうなエマの思いを勇気付けた。
ウィリアムとは、必ずまた逢える。
再会できたとき、そのときこそ将来を夢見ることができる。
「ありがとう……、ジョーンズさん……」
再会を、夢見て―――。
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