季節は秋から冬へと変わろうとしていた。
あかねはこの日、物忌みのため一日部屋にいた。
普段はこういうとき、八葉の誰かを呼んだりしているのだが、この日は何となく誰も呼ばなかった。
寒さのせいもあり、今日は十二単をまとうあかねは、貴族の姫君然と御簾内からぼんやり庭の木々の紅葉を眺めていた。
「 ――― 神子殿?」
庭からの頼久の声に、あかねははっと我に返る。
「え? 何?」
「申し訳ございません。とても、心の洗われるような旋律が聞こえましたゆえ」
「え!」
思いにふけるあまり、どうやら鼻唄を歌っていたようだ。
「頼久さん、聞いてたの?」
恥ずかしさがこみあげてくる。頼久が悪いわけでもないのに、つい強い声音になった。
「はい。神子殿の歌声が綺麗でしたので、聴き入ってしまいました」
大真面目に頼久は言うが、それがかえってあかねを恥ずかしくさせるとは気付かないらしい。
御簾内であかねは顔を覆う。
「いや〜、恥ずかしい〜」
「神子殿のいた世界の歌でしょうか?」
「そうなんだけど、うわあ、聞かれちゃったんだあ」
激しく後悔するあかね。
気分よく歌っていた鼻唄を聴かれることほど恥ずかしいものはない。
「どのような意味のある歌なのですか」
なおも頼久は訊いてくる。
恥じいるあかねをからかっているのではなく、どうやら先程の鼻唄に興味を引かれただけのようである。
「えっと、どう、どうなのか、な。……あたしにもよく判んないんだけど」
気持ちを落ち着かせながら、あかねは記憶を探る。
「確か、アメリカの昔からある歌だったような。イギリス、だったかな?」
「いぎりすという名の歌なのですか?」
「ううん、そうじゃなくて。アメリカもイギリスも、国の名前なんです」
「国の名? それはまた変わった名前の国ですね」
それも当然。この時代の人間からすれば、未知なる国だ。ましてアメリカは、その大陸自体が、まだこのとき発見されていないはず。
おそらく頼久は、あかねの時代にはそういう国が、この日本にあると考えているのだろう。
「イギリスは日本のずっとず〜っと西の果てにある国なんです。アメリカは、それよりももっと西にあるんですよ」
詩紋くんのような金髪碧眼のひとがいて。
そう言おうとして、やめた。
この時代の人間にとってその姿は、鬼だと誤解されてしまうから。
「太宰府よりも遠いのですか?」
「だ、太宰府?」
太宰府といえば、確か菅原道真が流されたところだと習った覚えがある。
頼久がその地名を知っているのが意外だったが、彼なりに遠い地名を訊いたのだろう。
「ううん、それよりももっともっと遠いんです」
「そんなにも遠くにある国の歌を、ご存知なんですね」
真剣に感心する頼久。
「あたしがすごいってわけじゃないんですよ。向こうはここと比べものにならないくらい、情報は速く伝わるんです。天真くんも詩紋くんも、たぶん聞いたことはあると思うな」
「もう一度、歌っていただけないでしょうか」
ためらいがちに頼久。
「先程その歌を耳にしたとき、胸にとても大きな熱い想いが染み入るような……、幸福な気持ちに静かに満たされていくような思いがいたしました」
「頼久さんも?」
あかねは軽く身を乗り出す。
頼久の述べた感想は、まさしくあかねがこの曲を初めて聴いたときに感じたものだったのだ。
「神子殿も、ですか?」
「ええ。なんか、嬉しいな、同じ思いをしてこの曲を聴くひとがいたなんて」
「わたしも、神子殿と同じ感覚を共有できて嬉しく存じます」
頼久の声には、本当に喜ばしさがにじんでいた。
「この曲はね、『アメイジング・グレイス』っていうんです」
「あめ……?」
「『アメイジング・グレイス』。英語だから、あ、日本語じゃないから意味は……どういう意味なんだろう」
あかねは決して得意とはいえなかった英語の知識を総動員して翻訳を試みる。
たったふたつの単語でしかないのに、すんなり訳が出てこない。
「ええと、アメイジングは……驚くような、だったかな。グレイスは、う〜ん、なんだろ、素敵、だったかなあ……?」
頼久に教えるのだ、あまりヘンな訳はしたくなかったのだが、
「……、『とても素敵』、かな? なんか違う。『果てしなく素晴らしい』……? う〜ん、ごめんね頼久さん、うまく訳せなくて」
「とても幸福な意味合いの曲なんですね」
「うん。とにかく、そういう意味なんだと思います」
頼久が、アメイジング・グレイスの旋律を鼻唄で辿りだした。
甘い声が彷徨いながら、あかねが歌っていた音階を探している。
照れくさかったが、あかねはそれに重ねて曲を口ずさんだ。
「 ――― いい曲です。心が、落ち着きます」
あかねの声に自らの声を重ねたり、ただ聴きいったりと、しばらく歌に耳を傾けていた頼久がしみじみと言う。
「この曲ね。すっごく美人で綺麗な歌手が ―― 歌を歌うことを仕事としているひとね ―― そのひとが歌ってるのを観て、好きになったんです」
TVで何気なく観ていた場面だったのだろうか、それとも母親が観ていたミュージカルか映画なのか。
たぶん何年も前のことなので、はっきりとした覚えはない。
ただ、とても綺麗なひとがしっとりと歌っていたことだけは、胸の奥に残っている。
「わたしも」
頼久は庭の向こうに遠い目を送りながら言った。
「この曲が好きになりました」
その優しい言葉に、あかねの胸に穏やかな喜びが広がる。
頼久が自分と同じものを好きと言ってくれる。
すごく、嬉しかった。
嬉しくて、言葉がみつからない。
頼久は、そんな静かな時間も、ともに分けあってくれた。
もしかすると、物忌みの今日、誰も呼ばなかったのは、無意識がそうさせたのかもしれない。
何故なら。
頼久が、誰にも遠慮することなく話をしてくれるから。
八葉とはいえ、貴族の面々にはさすがに遠慮を見せている頼久。
無口な彼が他愛もない話をするには、あかねとふたりきりというのが、どうやら大前提のようなのだ。
物忌みの日に誰も呼ばない ――― つまりは、頼久と一緒にいる。
(あたし、頼久さんを呼んでた、ってことなんだ)
頼久は、簀子縁の下に控えたまま、ゆったりと庭を眺めやっていた。
引き締まった秋の空気が、木々の葉を色付かせている。
(頼久さんって、秋の風景が似合うな……)
一幅の絵を見るかのように、あかねは頼久の姿に見惚れていた。
無性に、途方もなく幸せな想いに襲われた。
あかねの胸の奥から、甘い熱のようなものが次から次へと溢れてくる。
――― 頼久の耳が歌をとらえた。
御簾内からのどこか切ないその曲は、静かにたゆたうように、ただ頼久の胸内にだけへと流れていった。
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