星を観測するなら、夏よりも冬のほうがいい。
何かに書いてあったのか、誰かが言っていたのか。冬は空気が澄んでいて、よりいっそう星は輝きを増しているのだ、と。
ここ、京でもそうなんだろうか。
あかねは夜空を見上げ、ふと思った。
京の夜には、不必要な明かりが存在しない。あったとしても、松明程度である。だから、現代日本の夜空とはあまりにもかけはなれた姿で星は輝き、あかねの頭上に広がっている。
漆黒の深い宇宙を覆う、幾重にも広がる色とりどりの星々。輝きは強いものからはかないものまで、さまざまだ。
あまりにも星がたくさん見えすぎて、あかねは自分の知る星座を見つけることができない。
それとも、この地ではあかねの知る星座そのものがないのかもしれない ――― 。
「神子殿」
簀子縁で夜空を見上げるあかねに、声がかかる。
頼久だった。
夜も更けたこんな時間に庭から声をかける者など、頼久以外いないのだけれど。
「このようなところで。お風邪を召されますよ」
「大丈夫。暖かくしてるもの」
綿衣を着込んで、膝を抱えて丸くなっているから、多少の寒さは感じても凍えるほどではない。
しかし、頼久は気になるようだった。薄い月明かりを受けたその顔には、心配の色が窺える。
「頼久さんこそ、もっと暖かい格好しなくちゃ」
「わたしは、大丈夫です。はちこうですから」
困ったような笑みを浮かばせるあかね。
頼久は、『はちこう』の本当の意味を知らない。
『はちこう』とは、現代へと帰ってゆく天真が、頼久を表したたとえである。『八葉』と『忠犬ハチ公』の『ハチ公』をもじったのだ。
あかねに対する忠誠心の深さを、天真はハチ公に重ね、去り際に「お前ハチ公なヤツだから、何があっても、ずっとあかねを守ってやれよ」と告げたらしい。
後になって『はちこう』の意味を問われたあかねは、まさか犬の名前とは言えずに、忠義に厚かったひとのことだと誤魔化した。その説明の中で、暑さ寒さも関係なく主人を待っていたと言ったような気がする。
頼久は懐かしげに、眼差しを天へと向けた。
「天真たちは、何をしているのでしょうか……」
彼らがあかねと別れて現代日本へ帰って、数ヵ月が経った。帰ってすぐのときほどではないが、ふとした拍子に、どうしているのかと思う。
短い時間とはいえともに過ごし戦ってきた頼久ですらそう思うのだ。あかねならばなおさら思いは強いだろう。
「きっと同じことを、天真くんたち、思ってるんだろうな」
あかねは、吸いこまれるような夜空に目を戻す。
夜の空は途方もなく静かで、果てしなく強い。
自分の生まれた世界は、もしかすると目の前にある星のどれかひとつにあるのかもしれない。見えていなくても、そこに、確かに存在している惑星。
なんという果てしない距離。
宇宙の星々から見たら、アクラムと戦ったり、誰かを想って恋しさに苦しむのは、きっと、小さなことなのだろう。
龍神の神子としてこの地に召喚されたことも、本当は、宇宙の理からすると、全然不思議でもなんでもないのかもしれない。
ただ、偶然生まれた世界の渦に呼ばれただけなのかも……。
そうすると、いつかまた、その渦にはまってあちらに戻ることもあるのだろうか……?
胸の底が、ぞわりとした。
簀子縁に背中を預けて夜空を見上げる頼久がこちらを振り向いたのは、ちょうどそのときだった。
「この星空は、神子殿の世界のものと、同じなのでしょうか?」
「ん……。判りません。あたしの知ってる夜空は、もっともっと星が少なくて。たくさん星がありすぎて、どれが何なのか、判らないんです」
「……」
頼久は、何かをためらうように沈黙したが、
「 ――― 戻りたい、の、ですか……?」
突然の問いに、あかねは目を瞬かせる。
頼久の眼は、あまりにも静かにあかねを見据えていたから、かえって胸に迫るものがあった。
「星を見上げる神子殿は、そのまま天へと吸いこまれてしまいそうでしたから」
「……」
「後悔、しているのですか? こちらに留まったことを」
あかねは、頼久に目をやったまま、言葉を見失う。
そんなこと、思ってもみなかった。
あの世界を懐かしいとは思う。みんな、どうしているんだろうとも思う。
けれど ――― 。
「……あっちには、頼久さんはいない」
頼久ははっとした。
膝を抱える手を、きゅっと握り締めるあかね。
「確かに、向こうを懐かしいって思ったりはする。でも。あたしは、ここに残りたかった。懐かしく思うのは、後悔とは違う。自分の生まれ育った世界を懐かしく思うのは、ひとの気持ちの自然な流れなんじゃないのかな。それだけだよ」
「神子殿……」
「あたし、頼久さんがいてくれるから、向こうを懐かしく思っても、ちゃんと前を向いていられるの」
そう言って意志の強い瞳を微笑ませるあかね。
頼久は、何も言えなくなった。
あかねがこちらに残ることを決めてくれたとき、どうしても尋ねられなかった。
後悔はしないか、と ――― 。
彼女の答えが怖くて、踏み込んで訊くことができなかったのだ。
その不安はこの数ヵ月、ずっと頼久の胸の奥に引っかかり続けていた。
けれど、あかねのこの言葉。その表情から、自分の不安は杞憂なのだと悟った。
頼久の表情が、ほんの一瞬だけ、無防備になった。
本人は気付かなかったのかもしれないが、それを目撃したあかねの胸に、じんと溢れるものがあった。
幸福な思いで夜空に目を上げるあかね。
「 ――― あ」
小さな声がこぼれた。
「どうされました?」
つかれるように身を乗り出したあかねの視線は、夜空の一点に注がれていた。
頼久も、緊張を帯びてあかねの視線を追う。
しかしそこには、普段と変わらない星空が広がるばかり。つい先程までと、何ら変わりがない。
「神子殿?」
「見つけた……」
「?」
「オリオン座……」
「おりおんざ?」
何のことだか判らず、頼久の声に警戒の色が混じる。
「冬の星座なんです。ええと、星座っていうのは、星と星を線で結んで夜空に描かれる絵のことなんですけど、冬になって現れる星座が、あるんです、あそこに」
夜空を指差すあかね。
「判ります? あそこに三つ並んだ星と、囲むようにしてあるあの四つの星。オリオン座が……、ここにもあったんだ……!」
感極まって声を震わせるあかね。頼久はあかねの指差す方角に説明された星々を探すが、判らなかった。
龍神の神子であるあかねにしか見えないものなのか、それともあかねが言うように、星がありすぎて見つけられないだけなのか。
いずれにしろ、あかねの目には確かに見えているのだ。
手すりに下ろされたあかねの手に、何かが触れた。
目で確認しなくても、すぐに判った。
重ねられているのは、頼久の手だ。
頼久は、何も言わない。
ただそっと、一緒に夜の星空を見上げてくれている。
外の空気はひんやりと澄み、虫の音も風の音もない。
静寂が降り積もる星の夜。
こうしてそばにいてくれること、それだけで、穏やかな気持ちになれる。
そうやって何でもない時間を、何気ない日々を重ね、流れゆく時を過ごしてゆくのだ。
きっと、命が終わるまで。
時間が止まってしまうまで。
この世界で、生きてゆける限り。
幸福なままで ――― 。
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