こちらの世界に引き込まれたのは、桜の花咲く春。
それから数ヵ月。季節は夏に向かおうとしている。
少し前までは冷たかっただけの鴨川の水も、素足を浸せば心地よい感触を返してくるだろう。
あかねは、怨霊退治という名目でふらりと京の町に出ていた。共としてついてきているのは、頼久だ。こっそり出かけようとしても、頼久の目だけは誤魔化せなかった。
澄み渡る陽光をきらきらと弾く鴨川の水面に、あかねは今日の暑さを思い、涼を求めて川べりに降りる。
「気持ちよさそう〜!」
子供のように沓を脱いで川に入ろうとするあかねに、太っ腹な頼久もさすがに慌てた。
「神子殿、素肌をそのようにあらわになさるのは、いかがかと存じます」
「でも、沓を履いたままじゃ川に入れないじゃない」
「川に入るなど、無理をおっしゃいますな」
頼久は身体を盾にしてでも、あかねの素足を周囲から隠そうとする。
彼の意図が判らないでもないあかねは、きっと頼久を見上げて反論する。
「誰もいないわよ。ほら、見てるひとはいないんだから、いいじゃない。気にしすぎよ」
「そういうわけにはまいりません」
「でもね」
「なりません」
と、ああだこうだと意見を戦わせてみるものの、 ――― 結局のところ折れるのは、いつも頼久のほうだった。
少しはなれたところで、敗北した頼久は周囲の警戒を強めている。なんぴとたりとも、神子殿の素足を許しはしないと、眼差しは真剣そのもの。
こういう、ヘンなところでお役目熱心なのは、頼久の性分だ。
頼久とふたりで出かけることが自然に増えていくようになって、少しずつ彼のことが判りだしていた。
あかねは勝ち取った素足で、川の浅瀬を歩く。
くるぶしにかかる水の動きがくすぐったい。
水は少し冷たいけれど、気持ちはすがすがしい。
足の裏に返す石の感触が、痛いような心地いいような。
空を見上げると、雲を散らした青空が深い。
このまま天に吸い込まれてしまいそうだ ――― 。
意識がすっと空へと流れていったとき、足元をかすめる感触があった。
(なに ――― ?)
我に返って足元を覗くと、小さな魚が水の中をひらめいてゆく。
「魚だあ」
思わず笑みがこぼれる。
「へえ。意外と大きいのもいるんだ」
ひと差し指ほどの大きさの魚が、群を作って泳いでいた。
点々とした模様も、ちゃんと見て取れる。
「かわいい。あ、どこ行くのー?」
あかねの足が動いてしまったせいかもしれない。魚の群は、すいと向きを変えてしまった。
魚たちを刺激しないようそっと、あかねは群を追う。
「 ――― 神子殿」
あかねははっとした。
思いがけなく近くから頼久の声が聞こえたと同時、背中から強く抱き寄せられる。
「よ、頼久さん!?」
突然のことに、あかねの顔がかっと赤くなる。
だが、返ってきた頼久の声はひどく緊張していた。
「あなたというひとは……。すぐそこに深みがあると、お気付きにならなかったんですか」
「え?」
視線をふと転じると、一歩先には暗い水の色が待ちかまえていた。水の深さも、いつしか膝辺りになっている。かなり川の中ほどにまで進んでしまったらしい。
いまごろになって、そんな状況に気付き、怖ろしくなる。
「おおかた、魚でも追いかけてらっしゃってたんでしょう」
軽く責めているような、呆れているような声。
「その通り、です……」
しゅんと肩が落ちる。
そしてはたと気付く。
頼久は自分を抱きしめている。 ――― ということは。
「頼久さん、……ああ、やっぱりびしょ濡れだ……」
あかねのもとへと急いだ頼久の衣服は、見事に濡れてしまっていた。
あかねの言葉を勘違いしたのか、頼久ははっとあかねから離れて頭を下げる。
「申し訳ございません、危急の事態とはいえ、神子殿にご不快を与えてしまうなど」
「え? ……やだ、そんなんじゃないよ。そうじゃなくて、あたしのせいで濡れさせてしまって。ごめんなさいって、言いたくて」
靴のまま川に入った後の感触は、気持ち悪いことこの上ない。
そんな思いを、頼久にさせてしまうのだ。申し訳なくて、あかねはたまらない。
頼久もそのことは判っているのだろう。
あかねの気遣いに、ふと口元をほころばせた。
「神子殿は、本当にお優しい方だ」
自分と同じ場所で、武士団のひとりにすぎない男の事を思ってくれる。
頼久の微笑みに、あかねは急に恥ずかしくなる。
頼久の広い胸。大きな腕。いまのいままでその中にからめられていたのだから。
「や、やだなあ、頼久さん。褒めたって何も出ませんよ」
恥ずかしくて、あかねは先に川から出ようと足を踏み出す。
こんなときに限って、踏んだ石はとがったものだった。
「あいたっ!」
思わず小さく飛び上がる。
(ああん、もう、恥ずかしい〜)
さわさわと波音を立てて、頼久がそばに来た。
「さ、神子殿」
差し出されたのは、彼の腕。
「わたしの腕に掴まってください。沓はあちらのほうにありますか……あ」
「え? ――― あッ!」
脱いだはずの場所に、沓は見当たらなかった。
冷静に考えれば、左大臣家があつらえた沓が、川原に放っておいて無事であるわけがない。
頼久が番犬のように目を光らせていたのならばいざ知らず、あかねのもとへと走ったその隙に、おそらく誰かに盗られてしまったのだろう。ぱっと見には判りづらいが、よくよく見れば細かな細工もしてあったりで、いいお金になるにはなる。
あかねと頼久は、川原に目をやったまま固まるしかなかった。
そうして結局、こうなるのであった。
「失礼、神子殿」
言って、頼久はあかねを胸に抱き上げた。
「 ――― !?」
急に高くなる視界、そして間近な頼久の顔。
「不愉快かもしれませんが、土御門まではわたしの足をお使いください」
「そ、そそんな、不愉快だなんて、それは、全然、まったく、ちっともないんですけど……」
動揺を隠しきれないあかね。
頼久の考えは、ときどき理解不能だ。
素足はダメと言いながら、こうして公衆の面前であかねを抱き上げたりするのだから。
「あの、あの、あたし裸足でも全然かまいませんよ?」
「何をおっしゃいます」
「だって、その、あたし、……重いでしょう?」
標準体重よりは軽いつもりだが、自信満々に軽いと豪語できる体重でもない。こちらに来てから増えているかもしれないし……。
頼久の声は、小さく驚いていた。
「失礼ながら、重いとは思えません。むしろ、軽すぎるくらいです」
(……素直に、喜んでいいのかな、このセリフって)
つくべきところについてくれないのは、前々から気になっていることでもあるのだ。
黙りこんでしまったあかねに、ようやく頼久は気付く。
「やはり、不愉快でいらっしゃいますか?」
「え! そんな、不愉快だなんてそんなことは、ないです」
むしろ、好意を持つ相手に抱き上げられているのだ、時間が止まって欲しいくらいである。
「さようにございますか。では、もうしばらくこのままご辛抱を」
丁寧すぎるほどに丁寧な頼久の言葉。
それでも ――― あかねは気付いてしまった。
頼久の声にどこか、弾むものが潜んでいることを。
間近にある彼の顔が、どこか嬉しそうであることを。
落ちないようにというふりをして、あかねは頼久の肩にまわした手に力を込めた。
(土御門のお邸が、もっともっと遠くにあったらなあ……)
そう思ってしまうのは、ごくごく自然なことだった。
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