ご内密に
〜遙かなる時空の中で〜
 
   
 それはある日のこと。
 出かけることなく、この日あかねは藤姫とおしゃべりをしていた。
 そこにふらりとやってきた友雅も交えとりとめもない話をし、いつしか話題はひとの呼び名に移った。
「こっちのひとって、誰かを呼ぶとき、官位で呼んだりしますよね」
「君の世界では、珍しいことなのかい?」
「珍しいってわけじゃないんだけど。向こうでは聞かない言葉ばっかりだから、新鮮な気がするんです」
「ほう。では神子殿の世界ではどのように、わたしを呼んだりするのかな?」
 興味を引かれたかのように友雅。
 う〜ん、と、あかねは思考をめぐらす。
「友雅さんだったら……。橘さん、かなあ」
「まあ」
 よそよそしいからなのか、失礼だと感じたからか、藤姫が小さく声を上げる。
「味気ないね、それは」
「同世代の友達からだったらきっと、名前の呼び捨てか、……ともくん、とか」
 ともくん。
 そのあまりのギャップに、友雅はきょとんと言葉を失う。
「ああああのっ、あくまであたしの世界だったらってことなんで!」
 やはりこちらの世界の人間には、現代の愛称はちょっとかなり衝撃的だったのだろう。
「 ――― では。八葉の他の面々ではどうなるのだろうか」
 さすがは友雅。伊達に年をとっていない。
 藤姫は硬直して言葉も失っているというのに、もう既に復活している。
 その声が僅かに震えているのは、きっと気のせいだ。そうに決まっている。
「鷹通の場合は?」
「えっと、鷹通さんもやっぱり、藤原さんって呼ばれると思います。これは、みんなに共通なんだけど。で。鷹通さんは……たかくんとか、たか、タッキーとかってもアリなのかな?」
「たっきい」
 聞きなれない音の響きに、友雅は口の中で繰り返す。
「面白いね、たっきいとは。あの堅物に、軟派な音が呼び名で表されるとは」
「永泉さんの場合は、さすがに畏れ多い気がするんですけど、うーん、えいくん、えいちゃん、えいきち」
 自分で言ってみて、「えいちゃん」というのは矢沢永吉のことではないのだろうかと思ったりする。
「泰明さんは、やっくん、やすくん、やっちゃん、ヤス」
「やっちゃんとは、あの無表情くんが聞いたらさすがに嘆かれよう」
 だが、友雅はおかしげに笑む。
「朱雀たちはどうなるのかな?」
「イノリくんは、うう、難しいな。そのまんまかなあ。いの……、あ! いのっち!」
「……これまた風変わりな呼び名だな」
「ですが、イノリ殿にはどこか合っているような」
 カルチャーショックから復活したのか、藤姫も話に加わってきた。
 藤姫の言うように、確かにイノリにいのっちという音の響きは合っている気がする。
 某アイドルの愛称であったことは、話が長くなるのであかねはやめておいた。
「詩紋くんはねえ、もっと難しいかな。詩紋くんの場合は……。し、し、し……。やっぱり、詩紋くんは詩紋くんかな。しーちゃん……、うーん。ちょっと違うかな。あとは呼び捨てするか」
「呼び名がひとつだけという方もいらっしゃるんですね」
「そうだね。気にしたことなかったけど、そうみたい」
 詩紋の場合は、クォーターだからというのもある。
 おそらく、フランス名シモンに漢字を当てたものだ。
(マイケルはミッキーでキャサリンはキャシーって、外国の名前にも愛称はありはするんだよね。だから詩紋くんにもそれらしい呼び方はあるとは思うんだけどな)
「そういえば、あたしもひとつになるのかなあ。苗字の呼び捨てを除いちゃうと」
「というと、あかね、と?」
 友雅の艶っぽい声が、わざとらしくあでやかにあかねの名を呼ぶ。
 思わず胸がどきっと高鳴ったのは、仕方がないだろう。
 友雅に意味ありげに名を呼ばれて何も感じない女はいない。……と、あかねはこっそり思っていたりする。
「ええっと、はい。そう。例えばあたしの友達に玲子って名前のこがいるんだけど、あたしは玲ちゃんって呼んでるし、呼び捨てで玲子って呼ぶひともいるし、玲って言うこもいる。名前を漢字にしたときの最初の漢字にちゃんをつけたりそのまんまだったりっていうのが多いのかな」
「神子殿だと……?」
「あたし、ひらがななんです。それに、そういうふうに呼ばれたとしたら、きっと「あかちゃん」になっちゃうと思うんです」
「これはこれは」
 友雅はふっと笑う。
「我らの神子殿が、ややこ扱いされてしまうなんて」
「ね。やっぱりちょっと、でしょう? だから、呼び捨てか名前にちゃん付けかな。あ、でも小学校のとき遠足で池に落ちちゃったことがあって、そのときはしばらく「ずぶ子」なんて呼ばれてたっけ」
 当時はいやでたまらなかったが、こうして思い返してみると懐かしくてどこか愛らしい。
「そのひとの仕草や行動から呼び名をつける、というのは、こちらでもよくあることだな」
「そうですわね」
「例えば、ある中将などは、いつも烏帽子に手をやっている。そこから李下中将と呼ばれたり」
「りかのちゅうじょう?」
 あかねの頭によぎったのは、物理や生物などを表す理科だった。
(どうして烏帽子に手をやったらサイエンスなんだろう?)
 ちっとも繋がりが判らない。
「スモモの木の下では、冠を直すと泥棒と疑われるぞという、唐の古典から来ている。とくに彼に誤解を受ける言動があるというわけではないのだがね」
「あ……そうだったんだ」
 そう言われれば、古典の時間に教師からそんな話を聞いたことがあるようなないような。
「してみると、神子殿はかぐやの君とでも言えるのかな」
(……家具屋??)
「月の光は誰にも降り注ぐが、誰のものにもならず高みに輝く……」
「……ええと」
(こ、こういうときってどう返せばいいんだろ……?)
 友雅は自分のロマンに走るときがある。
 気の利いた返事に不慣れなあかねには、場に困ってしまう。
「では神子さま、天真殿の呼び方は、その、てんくん、になるのでしょうか?」
 藤姫は遠慮がちに助け舟を出してくれたのだろうが、その出し方がぶっとんでいた。
 いや、さきほどのあかねの説明からすれば、そう取られても仕方がないのだが。
「てんくん、って呼ばれてるのは、聞いたことがないなあ」
 という程度であかねは表現する。
 はっきりと「そんな間抜けた呼び方なんてないって〜!」と言えるわけがない。
「天真くんも、呼び捨てか、くん付けかなあ。まあ、詩紋くんは天真先輩って呼んでるよね」
「せんぱい?」
 藤姫は首をほんのりかしげる。
「学校の上級生。えっと、あたしたちが向こうの世界で勉強していた場所ね。天真くんはわたしの1コ年上、詩紋くんからすると2コ年上になるから、そういうひとに対して先輩って敬称をつけるの」
「でも、詩紋殿は神子さまのことを先輩とは」
「いまはね。でも最初の頃は元宮先輩って呼ばれてたよ」
「そうだったんですか。存じ上げませんでしたわ」
「あはは、別にそんなに感心されることでもないんだけどね」
 何故だか尊敬の眼差しで見つめられ、あかねは照れる。
「藤姫ちゃんも難しいかなあ。そうだなあ、ふじちゃん、ふーちゃん、……くらいかなあ」
「ふーちゃん……」
 胸になじませるように、藤姫は耳慣れぬ響きを口にする。
 初めて聞く自分の違う呼び名に嬉しいのか、声音はどこかうきうきしている。
「すると、残る頼久だが」
 友雅の声に、あかねは心臓を掴まれる思いがした。
「彼の場合だと、よりくん、ということに?」
「えっ」
 思わず声が詰まるあかねである。
「よりくん、よりちゃん、より……、ですか?」
「ええと……、そうなるの、かな?」
 そう言ってみたものの、あまりにもイメージが飛びすぎている。
 寡黙で無骨な彼をちゃん付けで呼ぶのは、ギャップがありすぎた。
 それなのに、あかねの頭の中では頼久の愛称がどんどんどんどん湧き出てしまう。
 よりすけ。よりぞう。源なので、みなっち。よりぴー。よの字。よりより。よりぴょん。よりちん。よっちゃん。よっちー。よーちゃん。よりりん。より……。
 たまらず、あかねはその場に突っ伏してしまった。
(ありえない……、ありえなさすぎる……)
 だが、ひくひくと胃の裏側は笑っている。
「どうなさったのです、神子さま!?」
 身をよじらせるあかねに驚いた藤姫が、肩に手を置いた。
「まあ大変、震えていらっしゃるわ!」
 くそ真面目に藤姫は声をあげる。
 女房を呼ぼうとする藤姫を制したのは、友雅だった。
「いや、その必要はないよ。どうやら神子殿は、笑っておいでだ」
「え?」
(い、いけない。笑っちゃいけない、いけないんだってば)
 しかし、堪えようとすればするほど、頼久の生真面目な顔とかけ離れたふざけた呼び名に、笑いはこみ上げてくる。
「ごめん、笑うつもりじゃ……、ぷっ」
 友雅はそんなあかねの様子を見つめる。
 何とはなしに、彼女が何を考えて笑っているかが判ってしまったので、面白くない。
 ぱちん、と、友雅の扇が鳴った。
 すぐに、女房がやってきた。
「神子殿に白湯か何かを持ってきてくれないか」
「かしこまりました」
 友雅の言葉に、自分が礼を失してしまったことに気付くあかね。
 こみ上げる笑いも、急速に収まってゆく。
「ごめんなさい」
「神子殿は快活に笑うね。こちらの女性はなかなかそう笑わない」
 暗に責められているようにも聞こえたが、
「まこと、神子殿の輝きにはいつもはっとさせられる」
 嫣然とした声音からは、機嫌を損ねた様子は窺えない。
 窺えないが、やはり雅な平安絵巻にふさわしからざる態度だったと、あかねは反省する。
「だがやはり、わたしのいる前で他の男のことを考えられるのは、あまりいい気がしないね」
「他の方?」
 藤姫は友雅の言っている意味が判らず小首をかしげる。
「頼久のどんな呼び名に心を動かされたのかな」
「う」
 鋭い突っ込みに、あかねは言葉を詰まらせた。
 それは秘密です、なんて言ったら、よけいなんだかアヤシイ気がする。
 藤姫も、あかねの返答を待ってこっちを見ている。
「ええ〜と、その……、よっちー、とか……」
 間があった。
 その場に沈黙が下りてしばらくした頃、先程呼んだ女房が白湯を持ってきた。
「頼久を呼んでもらえないか」
 女房があかねのもとに白湯を置いたのを見て、友雅が言う。
「はい」
「えええ〜ッ!?」
 あかねは奇声をあげた。
「ちょっ、と友雅さん!?」
 ふふんと思わせぶりな友雅の顔。
 悪い予感がする。
 ややして、簀子縁の向こうに頼久が姿を見せた。
「お呼びでしょうか、友雅殿」
 何も知らない、静かな声が部屋に響いてくる。
「いや、なんでも、神子殿がお前に新しい呼び名を与えてくださったようでね」
「新しい呼び名、ですか? 神子殿が……?」
 事情を知らない頼久は、友雅の言葉を反芻する。
 首をこちらにめぐらせた頼久の眼差しが、あかねの上で止まる。
 内心の焦りが、こわばった笑みになってしまう。
(と、友雅さん〜!)
「わたしももらったんだがね。何ともかわいらしい呼び名で、『ともくん』だそうだ」
「……はぁ」
 耳慣れぬ音の連なりに、頼久はぽかんとする。
 逆に、あかねはもしかして、と、どきどきした。
 友雅は、そんなあかねにちらりと不敵な笑みを乗せた眼差しをよこす。
「そしてきみの呼び名は『よりくん』という」
「よりくん、……ですか」
 まるで他人事のように頼久。
 それでも、命にも代えられない主君より賜った大切な呼び名である。
「ありがとうございます、神子殿」
 戸惑いを窺わせつつも、嬉しそうに答える頼久だった。
「そんなわけだから、もしも神子殿に『よりくん』と呼ばれても、無視しないように」
「判りました」
「あの、頼久さん。でも、やっぱりいつもと同じに『頼久さん』って呼びますから……、その、気にしないでくださいね……?」
「……はぁ」
 新しい呼び名をくれたかと思えば、そう呼ぶことはないと言う。
 頼久には、あかねの言いたいことが判らない。判らないが、あかねがそう言うなら、そうなのだろう。
 いまいち納得ができないまま、頼久は下がっていった。
 頼久の姿が完全に見えなくなったのを確認して、あかねは大きく息をついた。
「もう〜、友雅さん、驚かせないでくださいよ、心臓に悪いじゃないですか」
「『よっちー』と言うんじゃないかと?」
「ええ。びっくりした……」
 心底ほっとするあかねに、友雅はふふと笑む。
「そんな大切なこと、彼には言わないよ」
 思わせぶりで、余裕たっぷりだ。
「それは、わたしたちだけの、内密の話だ」
 友雅は内緒話をするかのように、扇で口元を隠す。
「まあ。友雅殿ったら」
 友雅の意味が判っているのか判っていないのか、藤姫は大人びた笑い声をあげた。
 からかわれたのだ。
 ようやくあかねはそう気付く。
「……友雅さんのいじわる」
「時に女性には、いじわるをしてみたくなるものなんだよ、男というものはね」
 艶っぽい眼差し。
 あかねは目をそらし、小さく唇を尖らせる。
「じゃあ、あたしこれから友雅さんのこと、『ともくん』って呼ぶことにする」
「なんと名誉な。八葉の皆に自慢できよう。何しろ神子殿からそう呼ばれるのは、わたしだけなのだからね」
「やだ、だったら、……そう、言わない……」
「それは残念」
 友雅のペースに乗せられっぱなしのあかね。
 うう、悔しい。
「だったら、だったらあたし、友雅さんのこと『ともべえ』って呼びます!」
 さすがの友雅も、これにはずっこける。
「ともべえ……!?」
「そうよ、ともべえって呼びます。どこにいても何をしてもともべえって呼びますからね!」
「み、神子さま、それはあまりにも……。友雅殿も、おふざけがすぎますわよ」
「これはこれは。星の姫君に叱られてしまいましたね。神子殿。どうか『ともべえ』だけはご容赦を」
 座ったまま、優雅な礼を友雅はあかねに送る。
 身分もあり、年長者の友雅にそうされては、あかねも引き下がるをえない、のだが。
「……友雅さんがいじわるしたら、そう呼ぶことにするわ」
 せめてもの意趣返しである。
「ではふたりきりのときにだけ、神子殿にはいじわるをして差し上げよう」
「ともべえ!」
「おふたりとも」
 呆れ声で藤姫がたしなめる。
 まるで痴話げんかではないか。
 友雅はまったく意に介してないのか、笑みを崩さない。
「『ともべえ』も『よっちー』も、我々だけの内緒話。どうだい神子殿。それで決着としようじゃないか」
「別に。いいけど」
「つまらないなら、たまには『ともべえ』と呼ばれて差し上げよう」
「……」
 やっぱりどのみち、友雅の掌の上で転がされているだけのような気がするあかね。
 友雅には敵わない。
 伊達に年をとっていないらしい。
 ――― とりあえずの収拾がついた一室の外では、簀子縁の向こうに控える頼久が、無表情のまま混乱に陥っていた。
(よりくん……。神子殿は何の意図を持ってわたしにこの呼び名を与えてくださったのだろう……? もしや、何かの暗号なのだろうか? いや、だとすれば友雅殿から伝えられるというのも腑に落ちぬ。友雅殿にも呼び名があったということは、他の八葉にも与えられたということか? すると、泰明殿は……やすくん?)
 ぷっとひとりで吹き出す頼久を、見ていた者がいたとかいないとか……。
 
 
 

 ごあんない365のお題         目次


       +++ 365のお題からは…… 

          33.私の名前


          ……を使いました。 +++



     *あとがき*

 すみません。遊んでしまいました……。
 
 
 
 
 
 
 
 
高萩ともか・作