ゆっくりと、日が暮れゆく。
沈む夕日の中、咲き出した桜は、影を色濃く落としだす。
(キレイ……)
あかねは勾欄に斜めにもたれかかり、ぼんやりと黄昏の風景に見入っていた。
天真は仕事に行ってしまったし、詩紋も邸のどこかにはいるのだが、ここにはいない。
だから ―― と言っては語弊があるが ―― 静かな時間が流れていた。
「なんか、いいですよね、こういうふうに時間が流れていくのって」
しみいるように、あかねは話す。
簀子縁を降りたところには、頼久が控えていた。頼久はあかねの言葉に、顔を上げて夕日を受ける。
「ええ」
眩しそうに彼は目を細める。
「天真くんや詩紋くんがいないからかな、静かで、なんだかいつもと違う気がするな……」
頼久は答えなかった。ちらりとその表情を窺うと、僅かに硬くなった気が、しないでもない。
「頼久さん」
「はい」
「あの、ね。そんな難しい顔してたら、せっかくの素敵な時間も台無しになっちゃうよ? あたしがぼーっとするのを見るのがイヤなら、向こう行っててもいいんだよ?」
「神子殿……!」
頼久はさっと顔色を変えた。
「そのようなことは、ございません! 神子殿のお心を煩わせてしまわれたのなら、お詫び申し上げます」
クソ真面目に慌てる頼久に、あかねは苦笑する。
「やだなあ、頼久さん。もっと簡単に流してくれればいいのに」
「は……。申し訳ございません」
あかねはくすくす声をたてた。
「そんなところが、頼久さんらしいんだけどね」
頼久は、困ったように俯いた。
そんな彼に、あかねは眼差しを落とした。
視線を感じたのか、頼久は目を上げようとして、逃げるように消えゆく夕日に顔をやった。
緩やかな紅い夕陽が、頼久のすらりとした頬の線を縁取っていた。
あかねは、そんな頼久の姿に見惚れてしまう。
「どう、されました?」
じっと見つめられ、さすがに頼久が訊いてきた。
「あ。ううん。べつに……。 ――― ねえ」
「はい」
「訊いても……いいかな?」
「はい」
頼久はまっすぐに振り返る。
あかねは僅かに、緊張する。
「あたし……、龍神の神子として、ふさわしいと思う……?」
「神子、殿……?」
「あたし、いまもこうして頼久さんにそばにいてもらってるし、天真くんや詩紋くん、八葉のみんなに守ってもらってる。でも……そうやって守ってもらうばかりで、何にもできていない」
「いいえ、そのようなことはございません」
庭の向こうに沈む夕陽を、あかねは目で追い、小さく首を振る。
「あたしひとりが高いところに持ち上げられてて、でも、期待されてるのに、あたしは、……応えられていない」
「何をおっしゃいます、あなたは充分すぎるほどに神子としてやっておいでです」
「そうなのかな……」
「申し訳ありません」
「え?」
突然、頼久が謝った。目を転ずると、あかねに向かって頭を下げている。
「な、何……?」
「神子殿に不安を覚えさせてしまうのは、わたくしがあなたをしっかりと支え申し上げていないからです。申し訳ありません」
あかねは胸を突かれ、勾欄から軽く身を乗り出した。
きりりと引き締められている頼久の唇。あかねの言葉に自分を責めている、厳しい顔つき。
頼久の、苦しみ。
「そんな顔しないで、頼久さん。どうして自分を責めるの? 頼久さんのせいじゃないのに、わたしが至らないことなのに、自分を責めないで。――― 頼久さんは、厳格すぎるよ。頼久さんがそうやって自分を責めちゃったら、あたし……どうすればいいか判んなくなる」
簀子縁の上と下。
ふたりはゆっくりと降りる闇に、見つめ合う。
黄昏とともに、静寂がふたりを包む。
夕闇の向こうから、頼久の身じろぎが伝わってきた。
「――― だからこそ、あなたは龍神の神子でいらっしゃるのです」
それは、思いがけない言葉だった。
「悩みや不安を抱えていてさえも、あなたには常に他の者に対する深い思いやりがおありです。あなた自身のすべてが、龍神の神子そのものなのです。神子としてふさわしいかふさわしくないか、ではないのですよ。気付いていないだけなのです。あなたは龍神の神子として充分すぎるほどの役目を既に果たしておいでです」
頼久の言葉が、静かにあかねの胸にしみこんでゆく。
穏やかな彼の声は、不思議なほどあかねを落ち着かせていった。
「――― ありがとう、頼久さん」
「いえ。礼にはおよびません」
頼久らしい答えだった。
凪ぐような風が吹いてきた。暑くもなく冷たくもなく、心地よい風だ。
あかねは勾欄から身を乗り出したままで、しばらく風に身を任せていた。
永遠かとも思われる静かな間があって。
「神子殿―――」
頼久はおもむろに口を開く。
「あなたが龍神の神子であることは確かなことです。でも、ただ ――― ただ、時折、このような場にいると……。あなたが龍神の神子でなければと、思うときがあります」
え? と、あかねは頼久を見た。
黄昏の闇は早く、もう頼久の表情は見てとれない。
「……口が過ぎました。詩紋です。ではわたくしは、この辺りを見まわってきますので、失礼します」
「頼久さん……」
頼久の気配が、遠くなる。呼び止めようと手を伸ばしても、彼の姿は、闇の向こうへ消えてしまっていた。
それと入れ替わるように、灯りを持った詩紋がやってきた。
詩紋はあかねを簀子縁に見つけると、無邪気に駆け寄ってくる。
「あかねちゃん」
「詩紋くん」
「何してるの? こんなところで」
「うん……ちょっと、ね」
あかねは頼久の消えた方向を見やる。もう、彼の姿はどこにもない。
「少し、風に当たってたの」
「ふーん。気をつけないと、風邪引いちゃうよ」
「そうだね」
頼久とのひとときを、あかねは詩紋には言わなかった。
――― 言えなかった。
胸の内に秘めておきたい、まるで密やかな逢瀬のように、きっとそれは大切なひとときだったから ―――。
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