「ねえ、ぶちょお」
夜空を見上げた蛍が、高野を呼び止めた。しみじみと感慨にふける声で続ける。
「今日って、満月なんですねー」
「……」
高野にとっては、そんなことは目をキラキラさせて感動することではない。
蛍は、高野の無関心など関係なく、銀色の満月にうっとり身をよじらせる。ご丁寧にも胸の前で手を組み合わせて。
「ねえ、知ってます? 満月の日は殺人事件が多いんだって」
「それが何か?」
返ってきた高野の声はかなり不機嫌だ。蛍を見据える目には、あろうことか殺意すら窺える。
さすがの蛍も、うっと喉を詰まらせた。
「おれたちは確か携帯を探してるはずだったが、おれの記憶違いだったかな?」
「う……。記憶違いだと……いいなぁ、なんて……。えへ」
15分ほど前のことである。
ふたりが縁側でビールを飲んでいるところへ、携帯のストラップに興味を持ったらしい野良猫が突然現れたのだ。ヤツはそれをかぷりとくわえたかと思うと、「あ!」と言う間もなく携帯ごと逃げてしまった。
普段なら携帯は部屋に置いているのだが、蛍が「あのね、ぶちょお。今日、すっっごくかわいいストラップを見つけちゃったの!」と、酔いにまかせて無理やり携帯を持って来させ、強引にアニメキャラと思われるフィギュアのストラップをつけてしまったのだ。
正直、どこがかわいいんだこんなの、という代物だったが、彼女があまりにも嬉しそうにはしゃいでいたから、黙っていた。
野良猫に奪われたのは、その高野の携帯だった。
こういうときに限って、蛍は携帯を会社に忘れていた。
「『えへ』じゃないだろう! それともなにか、そんなにも君は殺されてみたいというのか」
「め、滅相もございませぬ!」
「だったら早く探せ」
「しょ、承知いたしやしたッ!」
高野の底冷えする声に、敬礼した背筋が一瞬だけ凍った。
降り注ぐ満月の光は、部屋からの電気の明かり以上に庭の隅々までを照らしている。
ようやくそれらしき物体が見つかったのは、探し始めて1時間以上が過ぎた頃だった。
庭の端、柔らかな土の上に、それはちんまりと落ちていた。
「ぶちょおッ、見つけた、ありやしたー!」
縁の下を懐中電灯で探していた高野のもとに駆け寄る蛍。その手には確かに高野の携帯が。
―――が。
ただ落ちていたにしては、土のこびりつきがひどい。
受け取った途端、高野の表情が歪む。
「なんだこのニオイは」
「たぶん、にゃんこのちーだと思われます」
「ッ! 『にゃんこのちーだと思われます』だぁ ! ?」
さすがの高野も、怒りを込めて携帯を放り捨てる。
「ああなんてことを」
拾いに行く蛍の背を、忌々しげに見遣る高野。
なんてことを平然と言いやがるのだ、このオンナは。
一瞬見ただけだったが、ストラップがべとべとになっていたのは、猫が食べようとしたからに違いない。触れてしまっただろうか。ジャラジャラしていたから触れてしまったかもしれない。一刻も早く手を洗ってこのベタつきを落として消毒せねば。
「あとで……」
高野の声は、怒りのせいか掠れていた。
「あとで損害額を計上して請求する。慰謝料も請求させてもらうからな」
「えええぇッ ! ? せっかく見つけたのにそんな仕打ち ! ?」
ぎッと鋭く睨まれる蛍。
「あ、いえ。―――ロ、ローンでもいいでしょうか……」
「知るかッ ! !」
叩きつけられる怒鳴り声。
身をすくませて高野を見ると、彼は既に洗面所に駆け込み、手を洗っている。
「な、なによ。別にちーをかけられたわけじゃないのにさ。たぶん」
心臓がばくばくしている。
怒鳴られて、ちょっと、怖かった。
そりゃあ確かに、携帯は仕事上必需品だし、顔に近付けて使うものだから、野良猫のちーの臭いがついてしまうのは、ちょっと抵抗はあるけれども。
「……」
洗面所では、高野がまだ手を洗っていた。
「あの、ぶちょお?」
「……何だ」
爪の間まで、丁寧に几帳面にブラシで洗っている。
「その……、ごめん、ね?」
「何が」
「えと、携帯、汚しちゃって……ごめんなさい」
戸口に半分隠れる形で謝る蛍に、盛大な溜息をつく高野。
手の泡を充分に洗い落してから、おもむろに振り返る。
「もういいよ」
「え?」
「もうどうにもならないだろ? 気に入っていた機種だったが、いいかげん買い替える時期でもあったし、これもいい機会だ」
半分諦める声音。先程の怒りは見られない。
ほっと蛍は胸をなでおろした。
「よかった……あの、あたし」
「なので、携帯の代金は請求させていただくのでよろしく」
「へ ! ?」
免除してくれるのではないのか?
高野は澄ました顔で、さっさと自室へと戻ってゆく。
「あの、で、でもぶちょお」
「おれが寝るまでに、携帯、ちゃんと綺麗にしておくんだぞ。汚れや臭いが残ってたら真剣に慰謝料を請求するから」
「え、え、あ、あの」
しどろもどろの蛍の目の前で、高野の部屋の扉がぱたんと閉まる。
「そんな……」
携帯の弁償だけでなく、あれを綺麗にもせよと?
(―――ううぅ。にゃんこの唾とかで、ばっちくなってるのに……)
自分でするのは、面倒くさくてヤだなぁと、縁側に置いた高野の携帯を見る蛍。
だったが。
「! ! ! ? ! ! ! ?」
そこにあるはずの、携帯が、―――ない。
そうして聞こえる、にゃぉんという鳴き声。
携帯につけたままのストラップ……。
頭が、真っ白になった。
こうして高野の携帯は、完全に“水没”したのであった。
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