ロンドンに帰っても、しばらくは音楽から離れていたい。
ジュリアンはコモからミラノへ戻る馬車の中、じっと目を閉じ、そう決意した。
馬車の外を、これでもかというほど音楽やら歌やらが通り過ぎる。政治的に混乱していたとしても、イタリアは音楽という芸術によって既に統一されているのではないだろうか。
声楽を練習する若者の声が聞こえ、野外オペラの音楽が聞こえ、はては羊飼いの歌までも馬車の中まで届いてくる。
がらがらと車輪の音を抑えてまでも聞こえるのは、きっとジュリアンの耳が知らず音楽を探しているせいか。
マルヴェッツィ別邸を発つとき、侯爵夫人の見送りはなかった。自室にこもったまま、誰の面会も拒んでいた。
それはかえってありがたかった。
最後の夜の宣言をひるがえし、見送りに出てくれるかとの期待もあったが、ジュリアンには顔を合わせる勇気がない。
侯爵夫人の意志の強さは、感謝と失意の両方をジュリアンの胸に抱かせた。
こんな出逢い方でなければ。
そうすれば、ベアトリーチェはいまジュリアンの隣に座っていただろう。ロンドンに失意のまま逃げ帰る馬車ではなく、きっとそれは違う国を巡る旅の馬車で。寄り添うように、この中にいただろうに。
でも現実はこうだ。
この馬車に侯爵夫人はいない。マクレガーとディッパーだけ。そのふたりも、緊張から解き放たれて、ぐっすり眠っている。ジュリアンはいま、たったひとりだった。
眠れるものなら眠りたい。けれど、ベアトリーチェの夢を見るのが怖かった。
夢の中ではきっと、彼女はやさしくジュリアンに微笑みかけ、手を重ねてくるだろう。ジュリアーノ、とつややかな声で彼の名をささやくだろう。
彼女に焦がれ苦しむさまは、たとえマクレガーやディッパーにも気付かれたくはない。それを恐れて眠れない姿も、本当は見られたくはない。
起きていればいやでも耳が拾ってしまう音楽たち。
ジュリアンははっとした。思わずカーテンの隙間から外を探した。
道の向こうは広場だった。どうやらそこで、野外オペラをやっているらしい。美しいアリアを歌うソプラノが、侯爵夫人の声に聞こえてしまったようだ。
オペラ歌手と間違えるなど。
ジュリアンには複雑だった。それに、侯爵夫人に対してもあまりに失礼すぎる。
ソプラノ歌手の声が引きだしたのか、ジュリアンの頭の中で忘れようとしていた侯爵夫人の声がこだましだす。
額に手をやり、ジュリアンは懸命に彼女の声を頭から閉めだそうとした。
―――眠ったほうがいい。
起きて現実に苦しめられるのなら、身体の欲するまま眠りにつき、そこで幸福な夢にうなされるほうがいい。
ジュリアンは身体を沈めなおし、静かにまぶたを閉じた。
―――ジュリアーノ。
侯爵夫人の声がする。
何でしょう、ベアトリーチェ。
けれど、侯爵夫人は語らない。涙を流し、ひとりたたずんでいる。
ジュリアンは彼女のもとに駆け寄り、そっとその涙をぬぐった。
侯爵夫人は悲しげにジュリアンを見上げる。何も語らずに。
そんな彼女を、ジュリアンはそっと胸に抱き寄せた―――。
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