その日、トグサはふらふらと危うげな足取りで出勤してきたが、生身のため疲れがたまっているのだろうと、9課の面々はあまり深く考えていなかった。
しかし、勤務中どうも覇気がない。気にかかることでもあるのだろうか、思い悩んでいるようでもある。
―― あの……少佐。ちょっと、いいですか?
席を立ったトグサが草薙に電通で問いかけたのは、休憩が終わる頃だった。
―― いまか? 何だ。
―― その、ここではナンなんで。
室内には、バトー、サイトー、イシカワがいる。電通でもためらわれる話なのだろうか。
―― プライベートか?
草薙は感情も窺えない眼差しで問う。トグサはちょっと言いよどむ。
――プライベートといえばプライベートなんですが、違うといえば違うかもしれませんし……。
「はっきりしねえな」
バトーがつい口をはさんで、しまったとトグサを見た。
トグサも驚いてバトーを見る。
「電通の相手くらい、しっかり確定しとけ。丸聞こえだ」
イシカワがバトーをかばう。トグサは額に手をやり、がっくりとうな垂れた。
「概容だけでも言え。プライベートかどうかは、それで判断しよう」
業務連絡のような口調で草薙。
トグサは、バトーたちを気にしながら、
「つまり、その……女の心理について、なんですが……」
草薙はちらりと9課メンバーを見やる。バトーはもちろん、イシカワやサイトーまでもが興味をそそられたようだ。
妻子持ちのトグサが、女性の心理について尋ねている。しかも、よりによってあの少佐に。
―― 聞く相手を間違えてるんじゃないのか?
と、サイトー。まったく同じ言葉を、イシカワも電通で呟いていた。
―― かみさん以外で近くにいるオンナが少佐だけってのが、あいつの不幸さ。でも相手は誰だ、生真面目トグサくんを悩ます女ってのは。
バトーは面白がっているともとれる同情を返した。
トグサは居心地悪そうに、草薙の反応を待っていた。草薙はじっとトグサを探るように見上げている。
「女の心理、ねえ……」
―― 好きなひとでもできたのか?
ずばり草薙はトグサに問うた。
「えぇっ!? 違いますよっ! 何言うんですかっ!」
トグサはとり乱して否定した。草薙は彼の真意を眼差しで探る。トグサは、背筋を伸ばし、
「かみさん一筋ですよ。ヘンなこと言わないでください」
「なぁんだ」
つまらなそうにバトー。トグサはきっとバトーたちを睨んだ。そんな彼の耳に、草薙の無表情な声が届く。
「おまえの不倫問題でないなら、ここで構わないんじゃないのか?」
「だから誤解を招くようなこと、言わないでくださいって」
「だが、今日のおまえの心ここにあらずな様子は、そうとられても仕方ないぞ」
草薙は席を立つ気はないようである。
トグサは諦めたように息をひとつ吐くと、気持ちを整えた。
「その、ですね……」
言いにくそうだ。
草薙とメンバーが次の言葉を待つ。
「その、……話は昨日の夜にさかのぼるんすけど」
トグサは語りだした。
「――― つまり、おまえの娘が、幼なじみの何とかってガキと結婚するから父親なんていらないと言った。そういうことか?」
「……はい」
「で、おまえは多大なショックを受けた」
「そうです」
「それで、女とはそういうものかと、わたしに訊いている?」
「……そうです」
室内には、しんと静寂がおりている。誰もがみな、――― 笑うタイミングを逃してしまっていた。
きっといまここで室内に入ってきた者がいれば、トグサが失態を犯し、少佐に叱責されていると勘違いするだろう。そのくらい、トグサは草薙の前で思いつめた顔をしていた。
「――― 残念だがそういうものだ。女が最初に捨てる男は、父親だ」
トグサは言葉を失った。
代わりに、こらえきれなかったバトーの爆笑が室内に響く。彼につられ、イシカワ、サイトー、そして草薙までもが声を立てて笑い出した。
「笑い事じゃないっすよ!」
真剣に抗議するトグサの肩を、バトーがなだめるように軽く叩く。
「おまえさんは、いい、親父だよ」
苦しそうに笑いながら、バトーは切れぎれに言った。
「まさか少佐に娘の相談をするとはな」
イシカワもくっくっと笑っている。
「かみさんは何か言ってたのか?」
「……子供の言うことだから、気にするな、って」
「だろうな」
サイトーは鼻で笑った。
「何すか、みんなしておれのことバカにしてるんすか!?」
「バカにしてる? いやいやなんで我が課のホープ、トグサくんをバカにできるんだよ」
「じゃあその態度は、何なんだよ」
「おまえずっと気にしてたのか?」
草薙の通る声が、トグサに突き刺さる。
「そりゃ……、気になりますよ、親ですから。サクはしっかりした子だけど、娘をやるのは……ナンかヤです」
バトーたちは再び吹き出した。
「外野は黙ってろよ。だから少佐だけに話そうと思ったのに」
バトーは、むきになるトグサに肩をすくめて見せた。
―― 筋金入りの親バカだな、こいつ。
―― 頭の回転はいいはずなのに、娘のこととなると鈍るもんなんだな。
―― 滑稽だ。
彼らはあえて電通でこぼす。
「トグサ。おまえに言っておくことがある」
草薙は笑いをおさめ、きりりとトグサを見据えた。
「おまえはこの9課には必要不可欠な人間だ。だが、想像以上に――― 手の施しようのない親バカだ」
「少佐、それは」
「そういう親バカっぷりも」
トグサの言葉を遮り、草薙は続ける。
「ここには必要なんだろうがな」
メンバーを見渡し、そう言った。
周囲の笑いが止み、みながトグサを優しく見つめた。
「そうそう。ガキの言うことだ。自分の言ったことすら覚えてねえって」
「いちいちそんなのに反応してどうする、9課の猛者がよ」
「そんなので悩むのは、よき父親たる証拠だ」
「……と、いうことだ。おまえに愛されてると判っているからこその言葉だ。まともに受け取るな」
バトーたちの言葉を草薙が締めくくる。
トグサは草薙の前に立ったまま、その言葉を聞いていた。
「気にしすぎ、なんでしょうか」
「そう」
「気にすることはないって、ことですね?」
「そう」
トグサはしばらく考えをまとめるように黙っていたが、ややして大きく息を吐き出した。
そうして見た彼の顔は、一転、晴れやかにすっきりとしていた。
「よかった……。あぁ、よかった……」
感無量にトグサ。こんなにもあからさまに感動してみせるトグサも珍しい。
草薙たちの半ば呆れた眼差しにさらされながらも、トグサは何事もなかったかのように自分の席に戻ってゆく。
―― 息をつきたいのは、こっちだぜ。
―― これも平和的解決よ。
ぼやくバトーに、草薙は返す。
―― 見ろよあのすっきりした顔。
サイトーの言葉に、みなの視線がじっとトグサに集まる。
「? 何すか? もう休憩終わりますよ」
のどもと過ぎれば何とやら。既にいつものトグサだ。
「おまえ今日、おれたちに何かおごれよ」
「どうして?」
きょとんとするトグサ。
「平和すぎるからだ」
バトーの声は、怒りとも呆れともとれない色を含んでいた。はかりかねるようにトグサは草薙たちを見る。みながみな、バトーの言葉に頷いて見せた。
「でも、今日は娘との誤解も解かなきゃならないし……」
「バカ野郎! おまえ今週ずっとおごれよっ!」
バトーの声は、廊下にまで響くほどだった。
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