夜がもうすぐ終わりを告げようとしている。
高層ビルの給水塔にもたれ、トグサは空を仰いだ。
―― 目でも疲れたか。
重要参考人の監視を一緒に行っていたバトーが訊く。
義眼の彼にとって夜間の監視は何の負担でもないが、いくら暗視装置をつけていても、トグサには疲労ばかりがたまるはず。
―― いや。ちょっと、思い出したんだ。
―― 思い出した? 何を。
トグサはぴたりとカーテンを閉めてある重要参考人の部屋に目を戻す。
ふたりが監視しているのは、某事件の容疑者の恋人である。
どこにでもある普通のマンションに住み、どこにでもいる普通の顔をした彼女。莫大な金銭が掠め取られてゆくこの事件の裏に、彼女の存在があるとは思えないのだが、行方のつかめない容疑者は彼女の部屋に潜んでいるのかもしれない。もしくは、いずれ姿を現すか ――― 。
―― 昔付き合ってたコがさ、言ったんだ。「夜明けって、物悲しくて切なくなる」って。
―― 物悲しい?
―― ああ。これから1日が始まるってのに、寂しいって言うんだ。
―― そんなこと思ったこともねえぞ。
―― おれだって。
バトーは視線を動かさずに、くっと小さく笑う。
―― 何だ?
―― それって。一緒に朝を迎えたけど、離ればなれになるのが寂しいって、そういう意味なんじゃねえの?
「ばっ!」
思わずトグサは声を上げてしまう。
慌てて周囲を確認する。
大丈夫だ。何も変化は見られない。
―― 莫迦言うな! スキーに行くから、夜明け前に待ち合わせてたんだよ!
―― ま、そういうことにしてやる。なに、嫁さんには秘密にしておくから。
―― なンだよそれ。
―― 拗ねるなよ、ガキじゃあるまいし。
じろりと、トグサはバトーを睨む。
気付かないふりをして、バトーはマンションの一室に視線をやるばかり。
トグサは諦めてひとつ息をつく。
―― 下の名前が、同じなんだ。彼女と。
バトーは重要参考人の窓を指差し、ちらりと首をかしげる。
―― ああ。
―― それでそんなこと思い出したのか。
―― みたいだな。あのときと同じくらいの季節だし、時間も同じ。人間って面白いよな。普段はすっかり忘れてることを、状況に何か合致した項目があると、ふっと思い出したりする。
トグサは視界の隅で、東の空を見やる。
幾重にも薄い紗を重ねたかのような、ぼんやりとした明るさが、そこにはあった。
―― ほんと、変わったコだったな。
懐かしそうに、甘くトグサはそうこぼす。
―― どうして別れたんだ?
長い沈黙があった。
―― いろいろ、あってな。
トグサの目に一瞬浮かんだ、苦しげな表情。
バトーは、それ以上踏み込んではこなかった。
―― どうしてかな。夜明けを切ないとか寂しいとか思ったことなかったのに、さっき空を見上げたとき、すごく胸に迫るものがあったんだ。虚無感というか、喪失感というか。
―― 喪失感……。夜が終わることを、悲しんでた、とでも?
―― そうかもしれないな。時間が過ぎていくことを、惜しんでたのかも。夜明けや夕暮れって、時間が過ぎていくのが目で見て判るから。
―― センチメンタルだねえ。
からかうようにバトー。
だが、トグサはそのまま受け流し、空を仰ぐ。
―― ああ、もうこんなにも空が明るい。
何に対してかは判らない。
けれど、万感の思いを込められたかのようなそんなトグサの言葉に、バトーも空を見上げる。
東の空の蒼い色は、いつの間にか夜の闇の懐深くまでしみこんでいた。
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