「なあトグサ、やっぱり明日のことなんだが」
「だから明日は絶っっ対に休むって、前から言ってるだろ?」
トグサはバトーにきっぱり言い放つ。
「でもなあ、パズもボーマも別件で手が離せないって言うし」
「そんなの知るかよ。これは半年前から出してる休暇だ。何があっても、休むからな」
顔を上げることすらせず、トグサは自分のデスクに向かい、黙々と仕事を消化している。
取りつく島もない。
「あ〜、判ったよ。もうお前には頼まねえよ」
「そうしてくれ」
返されたトグサの言葉に、バトーはさすがにむっとした。
いくら半年前に休暇届を出していたとしても、人手が足りないこの忙しさを見れば、ちょっとは考えてくれてもいいではないか。それを頭から絶対に休むと言い張るなど。しかも、はっきりとした理由を言わない。
「ったく。ひどいヤローだぜ」
ぶつくさとバトーは聞こえよがしに嫌味を呟くが、トグサにはまったく通じなかった。
何故なら、彼の頭の中は既に明日のことでいっぱいだったからだ。
――― そして翌日の朝。
空は綺麗に晴れ渡り、日差しは肌に痛い。
バトーに文句を言われようが何だろうが死守した休日である。
この日トグサがいたのは、小学校のグラウンド。
万国旗がゆるい風にはためき、トラックの周りには児童たちの席が、それを囲むようにして父兄席ができていた。
運動会である。
トグサは、普通の父親の顔を貼り付けてはいたが、内心はわくわくしてたまらない。昔からこういった空気が大好きなのだ。しかも今日は、娘にとって初めての小学校の運動会。楽しむなというほうが無理である。
娘のクラスは白組に振り分けられていた。当然トグサは白組を強く応援する。隣の妻が顔を赤めるほどに。
「お〜っ! 頑張れっ、行けッ、よっしゃあ!」
これが公安9課の人間かと疑いたくなるほどの熱中ぶりである。普段の冷静沈着なトグサを知る者が見たら、腰を抜かすことだろう。
娘が出る30m走ともなれば、グラウンドの反対側までも通るような大声で叫ぶ始末。もちろん学校中から注目の的である。低学年高学年と分かれて発表されるマスゲームにも、娘の動きと一緒にジャンプしたりくるんとまわってみたりもする。
「あなた……、もうちょっと落ち着けない?」
さすがに見かねた妻が注意をするが、
「え? 落ち着いてるさ」
と、酔っ払いが酔っていないと言い張るように、うきうきと答える。仕方なく妻は、周囲の父兄に頭を下げるしかなかった。彼女自身、ここまで夫がのめりこむとは思ってもみなかったのである。
そういえば、と記憶を手繰る。
娘が幼稚園のときは、夫は仕事が忙しくて顔を出すこともできなかった。
彼にとっても、これはある意味初めての運動会なのだ。
(今日ばかりは、大目に見てあげようかしら……?)
と、理解を見せようと努力する妻であった。
午前の部、最後の種目は、父兄による玉入れとなっていた。
「じゃ、行ってくる」
待ってましたとばかり、トグサは妻に敬礼までして嬉しそうにグラウンドへと走っていった。
「大丈夫かなあ……」
夫に聞こえないよう、彼女はそっと溜息を漏らし、その背中を見送った。
父兄たちが集まったのを確認した係の教師が、簡単な説明の後、ピストルを頭上に掲げてマイクで声を上げる。
「では。よ〜い……」
ぱぁん!
その音に、職業柄思わず反応してしまったトグサは、一瞬出遅れた。
(しまった!)
追われるように、手にしていた白のお手玉を籠に向けて投げこんだ。
放物線の先には小さな籠。外すわけがない。
(外したら、9課エースの名が泣くぜ。目隠しされても入れてやるっ)
トグサの活躍は、すぐに皆の注目となる。
投げる玉がすべて籠に収まっていくからだ。
「お上手ですねぇ〜」
同じ白組の父親が、トグサの腕に感心する。
「こういうことが好きなもんで。何、絶対勝つ! っていう気持ちでやれば、入りますよ。ほら!」
と、またひとつ籠に玉が入ってゆく。
父兄の玉入れ競争など、所詮お遊びでしかない。
みんなそれを判っているものだから、たらたらと適当に手を抜いていたのだが、たったひとりトグサだけは真剣勝負を挑んでいる。
それを見守る娘の気持ちにも気付かずに。
「なあ、あのおっちゃん、すっげーよなぁ」
児童席に、軽い驚きが広がっていた。
「だれのおとうさんだろうね」
「ひとりでがんばってるよねー」
娘の周りでも飛び交うクラスメートのざわめき。わたしのパパなのよ、と言えるような雰囲気ではなかった。
「ねー、あれって、トグサさんのパパなんじゃない?」
ついに誰かがずばり突いた。
「そーだよねえ、トグサさんが走ってるときも、すっごく大きなこえでおうえんしてたもん」
「う……」
親の心子知らず。
彼女は泣きたくなっていた。
そんなことになっているとは露知らず、トグサはすべての玉を籠に入れてしまった。もちろん玉の数を数えなくとも勝敗は決まっている。係の教師も、半ば呆然として白組の勝利を宣言した。
(当然!)
トグサは、娘のクラス席にガッツポーズを決めて見せた。だが、気のせいだろうか、娘は椅子に座って俯いている。
(???)
てっきり喜んでくれると思ったのに。
娘の態度が、トグサにはよく判らなかった。
そして待ちに待ったお弁当の時間。
娘を目の前にしながらも、声をかけることのできなかったトグサには、おあずけ解禁のようなもの。
だが、ピクニックシートを広げて待っていたトグサのもとにやってきた愛娘は、予想に反し、浮かない顔をしていた。そしてなんと、母親と弟の間に座ったのだ。空けておいた父親と母親の間にではなく。
その行動に、トグサは戸惑ってしまう。
「どうしたの?」
妻は、混乱している夫を気にしながらも、娘にそっと訊いた。
「……だって」
娘は唇を引き結んでいた。。
「だって、……パパ、イヤだもん」
衝撃の発言に、トグサの手から、おにぎりが落ちた。
(い、い、いや?! いま、イヤって言った?!)
「どうして?」
母親の問いに、娘はもじもじとしている。
「パパ、とっても頑張ってたのに?」
「だって……」
娘は、言葉にするのをためらっているようだった。成り行きをじっと見守るトグサの前で、落としたおにぎりを息子が掴んで父親に差し出す。どうも、と、他人行儀に受け取るトグサのその手は、震えていた。
「大丈夫よ、パパは怒ったりしないから」
娘はほんの一瞬、トグサを見た。ほんの一瞬だけだったが。
「だって……。恥ずかしかったんだもん……」
空は抜けるように晴れ、遮る雲がないため焼けるような日差しだというのに―――、その消え入りそうなひとことで、トグサの中にブリザードが吹き荒れた。
恥ずかしいって、どうして? さっきだって一生懸命頑張ってたのに? だって、みんなわらうもん。トグサさんのパパなんだよねえって。でもそれは褒めてくれてるんじゃないのかな。ううん、ちがうの。そんなんじゃない……。
目の前にいる娘と妻の会話が遠い……。
何を話しているのだろう?
すぐそばにいるのに、動きが見えない。まるで写真をめくっているかのように、目の前の出来事が切れぎれになっている。
そういえば、おにぎりを持ったままだ。
食べなければと口に運ぶが、味も食感もない。サンドウィッチだったかピザなのか。
ああ、運動会にピザはないよな。
(そうだった。おれ、運動会に来てたんだっけ……)
気付くと、午後の部が始まっていた。
高学年の組み体操、学年を縦に割ったクラス対抗選抜リレー。最上級生による騎馬戦……。
どれも、トグサの頭を素通りしてゆく。
あっという間に、午後の部も終わり、記念すべき娘の小学校初運動会も終了した。
家へと帰る間、疲れて眠ってしまった息子をおんぶするトグサはショックから立ち直れない。
肩を落としてとぼとぼ歩く夫に、妻がいろいろねぎらいの言葉をかけてくれるが、
「だって……。恥ずかしかったんだもん……」
という娘のひとことが、どうしても頭から消えてくれない。
「悪気があって言ったわけじゃないんだし。ね?」
「ああ……」
そう言ってはみるものの、この落胆はどうしようもない。
トグサは溜息をかみ殺す。
「こいつも、重くなったよな……」
誤魔化すように、ずり下がってきた息子を背負いなおした。
背中の息子は、いつの間にかこんなにも重たい。
娘が父親を恥ずかしいと感じるのも、仕方ないのだろうか。
(もう、そんな年頃になっちまったのかなあ……)
知らず落とした溜息を、妻は聞こえないふりをしてくれた。
「ト、グ、サ、く〜ん」
休日明けでたまっていた仕事をこなしていたトグサの肩が、ぽんと叩かれた。
バトーだった。
にやにやした笑いが、気持ち悪い。タチコマを真似てくん付けで呼ぶことといい、何かよからぬことを考えているに決まっている。
「昨日、サイトーから面白いものもらってなあ〜」
「面白いもの?」
デスクに腰をかけたバトーの指には、数枚の写真が挟まっている。
見ようと覗くが、ひらりとかわされる。
「何だよ、それ」
「見たいか」
「別に」
トグサは手元に視線を戻す。
「ト、グ、サ、く〜ん、そんな態度とってもいいのかな〜」
「どういうことだ」
デスクの上に、一枚ひらりと落ちてきた。
見てもらいたいならしょうがないと、手にとったトグサの顔に衝撃と青すじが走った。
「こっ、こっ、こっ!」
「な? 面白いだろ?」
「どどど、どうしてこれを!? おい、そっちのも見せろよ!」
「ん? 見たいのか? しょうがねえなあ、じゃあ見せてやるよ」
と、バトーはもったいぶって残りの写真もトグサに手渡す。
そのどれもに、トグサは絶句した。
昨日の運動会で応援している自分が写っていたからだ。
「何でもな、サイトーが昨日張ってたところから、どっかの運動会が見えたんだと。そうしたらそこに、お前そっくりな野郎がいるじゃねえか。ありえなくらいの弾けっぷりだったんだが、お前昨日休みだったろ、他人の空似にしては似すぎてるってんで、一応写真に撮っておいたらしい」
そう言うバトーの声音は、自信満々だった。
「これ見ろよ。こっちと全然表情が違うだろ? こっちは弾けてるのに、こっちは世界が終わったみたいにどんよりだ。サイトーが言うには、どうやらこいつの娘が何か言ったらしい。唇を読む限りでは、『パパは恥ずかしいもん』とか何とか」
娘も一人前の考えを持つようになったのだと自分に言い聞かせて無理やり納得させていた昨日の出来事を、この図体のでかい男は傷口をえぐるようにして思い出させてくる。
昨日、強引に休みを取ったことに対する仕返しだ。間違いない。
「少佐にも一応報告しておかなきゃな。お前にそっくりな男がいるって。ああそうだ。掲示板にも載せて、みんなにも知らせるべきだよな」
言って、バトーはトグサの手から写真を取り上げた。それをすぐにトグサが取り返す。
「これは……、おれがもらっとく」
「……だな。記念にもらっとけ」
奪い返されると思いきや、バトーはあっさり引き下がる。怪しんで見ていると、彼は意味ありげに懐からメモリを取り出した。
「もしかしてそれって」
「ふふん。サイトーから預かったそれのデータだ」
トグサがバトーにさっと手を伸ばす。だが、メモリを懐にしまい、身を翻すバトーの動きのほうが速かった。
「それもよこせっ」
「やだねったら。おっと、こらこら。暴力はいけないなあ、トグサよ」
トグサに乱暴に上着を掴まれ、バトーはいなす。
自分の名誉がかかっているのだ。トグサは必死である。
「渡すんだ、バトー!」
「ほらトグサ。こんなことしてないで、仕事溜まってんだろ?」
「だから渡せってば!」
バトーはひらりひらりと身をかわし、トグサを翻弄するばかり。トグサの苛立ちは募るいっぽうだった。
「くっそう、バトー! 渡せって言ってンだろっ!!」
トグサの怒鳴り声が部屋中に響いたときだった。
いつの間にいたのだろう、すぐそこでサイトーがひとり立ち尽くしていた。
よだれの痕からすると、仮眠室で眠っていたらしい。
まだ目が覚めきっていないのか、サイトーは暴れるふたりの姿をぼんやり眺めていた。
「サイトー! ぼーっと突っ立ってねえで手助けしろ!」
今度はメモリを取り上げられ躍起になったバトーが、サイトーに協力を仰ぐ。
「いや、ああ。やっぱり昨日おれが見たはりきり男って、トグサだったんだな、と思ってよ」
「!」
冷静に分析するサイトーの声に、トグサの気がそれた。
バトーがその隙を見逃すはずがなく、トグサの手から、メモリが奪われる。
「あっ!」
トグサの正体、公開決定の瞬間だった。
――― その後、関係者の間でトグサの人気が上がったのか下がったのか、それは定かではない……。
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