その日、パズは見るからにぐったりとした様子で出勤してきた。
「どうした? 女にでも振られたか」
バトーなりのストレートな気遣いに、パズは凄みで応える。
「なんだァ、その目つきは。ははーん、さては図星だろう?」
「おれが女に振られるわけないだろうが」
いつになく怖ろしい声音である。
既に出勤していた律義者のトグサが、何事かとやってくる。
そんなトグサの顔を見て、パズは盛大な溜息を落としてくださった。
「な、ナンだよ、ひとの顔見て溜息つくなよ、おい」
「どうせまたおまえ、ヘマでもしたんだろ」
「またってナンだよ、またって!」
「おまえの尻、まだまだ青いからな」
「猿のまんまの旦那よりは進化してるよ」
「言うじゃねえか」
「いいよなあ、トグサは平和で……」
漫才が始まろうとするふたりの前で、パズはしみじみ呟いた。
納得いかないのはトグサである。
「どういうことだ?」
「いや、別におまえが何をしたってわけじゃないんだ」
「トグサじゃなくても気になるな」
「何があったんだ?」
我関せずと静観していたイシカワとサイトーも気になりだしたようだ。
パズは彼らの間をどんよりと肩を落としたまま横切り、自分のデスクについた。
思わず顔を見合わせてしまうその場の面々。
ひとつ溜息をついたあと、おもむろにパズは語りだした。
今日のパズのシフトは、世間一般といわれる社会人と同じ時間帯の出勤だった。
せわしない人々の間を歩いていると、向こうから大学生らしき女性が2人やってくる。向こうは既にパズの存在に気付いているらしく、ひそかにはしゃぎながらちらちらとこちらに視線を投げてくる。
パズも慣れてるもので、そんなことには何の感動もなくただ先を歩くだけだった。
ところが、問題は彼らがすれ違った直後に起こった。
「ヤダ。おっさんじゃないの」
「ちょっとがっかり」
「期待しちゃってもったいな〜い」
もちろんそれは常人には聞こえないような小声のささやきだ。
だが。
パズには聞こえる。
聞こえてしまうのだ……。
「このおれを、おれが……おっさんだと……!」
頭を抱え、懊悩するパズ。
激しい苦悩のオーラが周囲に漂う。
どーする? と、視線を交し合う同僚たち。
「おれなんてすっかり『おじさん』で定着しちゃってるぜ?」
「だからトグサは平和なんだよ」
トグサはちょっとかちーんときた。かちーんときたが、つとめて冷静に考えてみると、パズの衝撃には思い当たるフシがある。
「おまえ、もしかして『おじさん』って呼ばれたの、初めてだったとか?」
「う……」
声を詰まらせるパズ。
既におっさん歴の長いイシカワと、はからずもおっさんのカテゴリに入れられているトグサはなるほどと得心した。
ついつい先輩ぶって、パズの肩にぽんと手を置いてしまうトグサ。
「まあな、こう言っちゃナンだが、おれだって初めて『おじさん』って呼ばれたときは衝撃的だったさ」
「そうだな。ついに来るべきものが来たのかってな」
イシカワの言葉にうんうんと頷くトグサ。
被おっさん経験者のバトーもそうなんだよなあと呟き、遠い目をしている。サイトーはまだ未経験者なのか、ポーカーフェイスを決めつつも気になっているようだ。
「子供ができたらさ、どんなに若くても『誰それちゃんのおじさん』ってのが確定だろ? もう、すべてががらがらがらって崩壊。ああもう、おれの青春終わったんだあって、ま、結構落ち込んだな」
「……おれは子供いないぞ」
「自称」
と返したのはもちろんバトーである。パズはこれを黙殺したが。
「子供云々は置いといて、トグサって結構老け顔だよな」
「! 気にしてることを……」
トグサごときに睨まれても、サイトーには痛くも痒くもない。
「おまえ、普通におじさんって言われたの、結構早いだろ?」
「……悪かったな」
雲行きが怪しい。知ってか知らずか、助け舟を出したのはイシカワだった。
「いつだったか、女子高生らしき子に『おじさま』って甘えられたことがある」
一瞬、すべての時間が止まったあと、
「おじさまだぁ〜!?」
イシカワを除く一同の声と身体がのけぞった。
「そんなに驚くこたぁねえだろうが。人徳よ、人徳」
「いや、たぶん違」
イシカワの誤解を訂正しようとしたトグサの口を、ふごふごと手で押さえるバトー。
≪ナンだよ≫
≪莫迦やろう、幸せな勘違いくらいさせておけ≫
電通でオトナな配慮を促すバトー。
≪そんなこと言ったって、被害に遭うのはイシカワの旦那だぜ?≫
≪おまえが心配してるのは、10年後の娘の姿だろうが≫
≪ヘンな妄想すんな。おれの娘は10年後だろうが20年後だろうがいい年こいたオッサンに「おじさま」なんて甘えたりするもんか≫
思わずトグサの顔をまじまじ見てしまうバトー。
「……ナンだよ」
≪おまえ、語るに落ちたな≫
≪どういうことだ≫
≪イシカワのこと『いい年こいたオッサン』って言ったよな≫
思ってもみなかったバトーの指摘である。
言質を取られてしまい、内心激しく動揺するトグサ。
予想通りの反応に、バトーはにんまりする。
「まあいい。だがこれだけは忠告しとくよ。娘ってのはな、親が知らない間にいつの間にかしたたかな女になってたりするんだよ」
「あの子に限って断じてそんなことはない」
「きたきた、『嗚呼、うちの子に限って……!』の典型的なパターンだ」
「なんだとう!?」
≪おふたりさん≫
癇に障ったトグサの脳裏に、サイトーの電通が響く。
サイトーを見ると、彼は眼差しでパズを示している。
促されるまま視線を移していくと ――― 背中一面にキノコを生やす勢いで落ち込んでいるパズがいた。
「いや、な、パズ」
ちょとした罪悪感もあってバトーには珍しい猫なで声だったが、パズの身体はぴくりとも反応しない。
そんなバトーの肩に手をやったイシカワが、パズの隣に腰掛ける。
「なあパズよ。オトコの真の魅力ってのは、ガキには判んねえもんだ。世間を知らないそんなガキ、射程外だろうが。毛も生え揃ってない外野の何を気にするってんだ?」
焦点の定まらなかったパズの目に、光が戻ってくる。
「 ――― そうだ……」
ゆるゆるとパズは姿勢を起こす。
「だろ? おまえの相手はオトナの女じゃねえか」
「ああ、……そうだ。そうだよ」
昨夜の女性のことを思い浮かべたのか、ただでさえ細いパズの目が、すっと細められる。
そのまま、イシカワへと流れた。
もしもイシカワが女性だったら、一発で打ちのめされるような熱い視線だった。
「このおれが、ガキのたわごとに振りまわされるなんてな」
「まったくだ」
「済まん」
「なに。気にすんな」
ふたりのやりとりをはたで見ながら、トグサたちは内心感動していた。
≪さすが、イシカワの旦那だよな≫
≪年の功ってヤツだろうな≫
≪……だな。おまえたちの電通をすっぱりなかったことにしてるんだから≫
サイトーのひと言に、ぎょっとするトグサたち。
≪トグサ、てめえ回線ぬるすぎだ!≫
≪言いがかりすんなよ!≫
≪やっぱりヤバイこと話してたのか≫
無表情のサイトーに、ようやくはめられたことを知ったトグサとバトー。
「あんたたちの態度からすりゃ、誰だって電通を疑うよ」
「……」
「ま、なにはともあれ、どうやら無事解決したようだからな。それでいいんじゃないか?」
やって来たときとは打って変わって満面朗らかなパズ。
そうはいっても、なんだかしっくりこないものがあるふたり。
どこか置いてけぼりをくらったような気がしないでもない。
「けどよ」
疎外感を振り払うようにバトー。
「こうして見まわしてみると、おれたち9課の連中って、みんなおっさんって言われてもおかしくないっちゃあおかしくないよな」
みんながみんな、お互いの顔を意味ありげに眺めあう。
「それだけベテランってことだろ?」
「とも言えるな」
妥当な回答を示したトグサに、一同頷く。
「じゃあ9課の中で一番のベテランっていうと……」
続けられたトグサの発言に、その場の空気に鋭く緊張が走った。
トグサを含め全員が、その先へと思考を延ばすことを本能的に拒絶する。
トグサをたしなめる発言すらなされない。
怖ろしいまでに、電通も沈黙している。
誰もが、身動きすらできなかった。
呼吸もままならないほどに。
「おまえたち、何をしている?」
突然降ってきた声に、一同の身体に電撃が走る。
だがしかし、それは草薙の声ではなかった。
意志の力で振り仰ぐと、そこには状況を把握しかねる顔の荒巻の姿があった。
荒巻大輔本人である。
それを確認した面々の口から安堵の溜息が大きく吐き出された。
わけが判らない顔をしながらも、荒巻はいつも通り何事もなかったかのように朝の打ち合わせや引継ぎなどを始めてゆく。
――― そうして、トグサの投げかけた疑問は、それ自体、永遠に封印されることになったのだった。
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