ある朝、トグサは目を覚ました。
ちらりと目だけで窓を見る。カーテンごしに日差しの気配が感じられた。妻は既に起き、朝食の用意をしているのだろう。時計を見ると、少し早いが、もうそろそろ起きる時間だった。
時計を持っていた手を、何気なく見た。
見慣れぬ指の形に、おやと思う。
細くて長い指先は、しなやかに動いていく。自分の意思通りに。
「なんだこれ」
と出た声は、トグサのものではなかった。喉もとを押さえ、トグサは飛び起きた。その胸元に、明らかな違和感が。
「―――!!!」
あまりのことに、声も出なかった。
(なっ、なんで! なんでオンナのむ、胸がここに!?)
パジャマの下には、豊かな曲線を描いたふくらみと、適度な重みが。
確認しようと手を伸ばすが、触っていいのかトグサは悩む。パジャマをそっとつまんで、襟の間から胸元を覗いてみるが、深そうな谷間を発見したまでで、そこから先には行けなかった。
「……」
(でも……、あいつより、デカイな、これ……)
トグサは、妻よりも大きな胸を前に、ちょっと考える。
誰が見ているわけでもないのに、トグサは素早く部屋を見まわす。
ひとりきりであるのを確認すると、大きく膨らんだ自分の胸の先を、指でちょんと突付いてみた。
(ぐ。突付かれた……)
ほんわりした感触に、トグサは小さく驚いた。もう一度、今度はしっかり手のひらで確かめてみようと思ったそのとき、隣の部屋から息子が泣き出す声が聞こえてきた。
びっくりしてトグサは飛び上がった。妻が隣の部屋に入り、息子をなだめる声が聞こえる。危うく失念していた現実が、我に返ったトグサにのしかかる。
(危ねぇ、何してたんだ、おれ? こんなことしてる場合じゃないんだって。ええと、いったい何が起きたんだよ、これは? 女の胸ってどういうことだ? おれは、男、だよな。何で女の胸がついてるんだよ)
トグサは自分の身体を確認してゆく。
髪の毛は襟までしかなく、まっすぐだ。あごも細く、ひげもない。喉ぼとけもなければ、腕の筋肉は付き方が全然違う。
そして、ないはずのものが胸元にある代わりに、あるはずのモノが、どこにもない。すかすかして気持ちが悪かった。
何が起きたんだ?
これは、いったい誰なんだ?
トグサは音を立てないようベッドから降り、妻の鏡台をおそるおそる覗いてみる。
(!!!)
トグサはくらりとよろめいた。
度肝を抜かれるとはことことか。
トグサのパジャマを着て、ガニ股で呆然としているのは、紛れもなく9課の女帝、草薙素子であった。
言葉にならない叫びが、トグサの中に吹き荒れる。
―――昨日、少佐をベッドに連れ込んだのか?
―――胸もまなくてよかった〜。
―――でも触っちゃったよ、おい。
―――いつから少佐の義体に?
―――どうして少佐がここに?
―――おれ、何もしてないよな!?
トグサは激しく混乱した。
ドアを隔てた向こうには妻がいる。妻の知らない女性が寝室にいるとあっては、ああいったいどんな修羅場が繰り広げられるのだろう?
決して、何があっても決して、知られてはならない。
(落ち着くんだ。いいか、落ち着け、パニックになるな)
トグサは冷静になろうと努めて自分に言い聞かせる。
昨夜は何があった? トグサは記憶を探る。
珍しく早い時間に仕事が終わって、そのあと、草薙とバトーと3人で飲みに行った。
(そうだ。おれはまっすぐ帰りたいと主張したのに、聞き入れてもらえなかったんだ)
すぐに帰るつもりだったのに、誰かが愚痴をこぼすと、その場は愚痴の言い合いになった。そしていつの間にか、アルコールの注文が増えていって……。
(ここまではちゃんと覚えてるぞ。どさくさに紛れて少佐にひとづかいが荒いとうっかり言っちまったのも覚えて、る……ぞ……)
怖ろしいことまで思い出した草薙の顔をしたトグサの頭から、音を立てて血の気が引いてゆく。
草薙の身体になってしまったトグサ。昨晩口走った、草薙への文句。
つながりが―――あるのかも、しれない。
だが、あったとしても、いまはそれを追求する場合ではない。
何故ならドアの向こうには、トグサを起こしに来る妻の気配が―――!
(うああああっっ!!)
トグサは鏡台の前で固まったまま、動けなくなった。
ベッドに戻り、布団をかぶって隠れるか? いや、すぐにばれる。
窓から外に逃げようか? だめだ、その前にドアが開く。
どうすればいい?
目はせわしなく逃げ道を探すが、凍りついたままのトグサであるはずの草薙の身体からは、滝のような汗が噴きだすばかり。心臓は口から飛び出そうなほど激しく胸を叩いて荒れ狂う。
ドアの前で、足音が止まった。自分を起こしに来る妻の足音は心地よくて好きだったのに、今日に限っては最後の審判が下されるカウントにさえ聞こえる。
「あなた?」
(もうだめだ―――っっ!)
何も知らない妻の声とともに、ドアが静かに開いてゆく―――。
「誤解なんだあああああっっっ!!!!」
トグサは叫んだ。
目の前には立ち尽くす妻―――ではなく、見覚えのある男の顔が。
格好から推察するに、昨夜飲みに行った店のバーテンダーだ。カウンターごしに目を丸くして、驚いた顔でこちらを見返している。
どうして彼が寝室に。
だが、その背後にあるのは、寝室の壁紙ではなく、すっきりと洗練された店の内装。ややしてトグサの耳に、いろんな音が入ってきた。
店の外を走るトラックの音、低音の効いた音楽、小さくうなる空調の音。そうして、全身に突き刺さる視線の気配。振り返ると、店の客たちが薄暗い照明の下からこわごわとトグサを見ていた。
トグサははっと自分の身体を思い出す。
ごつい指。昨日着ていた服。平らな胸。手をやると頭の上にはごわごわと伸びた髪が。
足の付け根に手を下ろし、感触を確認する。ちゃんと、ある。
(何があった……?)
いつもと同じ、自分の身体だ。草薙の身体ではない。
「ぷっ」
右隣で、誰かの噴きだす声が聞こえた。
バトーだった。バトーが隣に座り、その向こうにはこちらを見る草薙の姿が。
トグサは目を疑った。
いまのいままで自分だった姿が、そこにいるのは何故だ? いったい、これはどういうことだ?
「気分はどうだ?」
バトーが訊いてきた。
「―――え?」
トグサが聞き返したところで、店内に客たちの会話がひそひそと戻ってきた。
「ぐっすり寝てたが、夢はどうだった?」
バトーは、訳知り顔で問う。
「どういう、ことだ?」
「どんな悪夢を見たのかを訊いてるのよ」
グラスを傾けながら、バトーの向こうで草薙が言った。彼女の眼差しも、意味ありげだ。
トグサは、悪い予感がした。
「悪夢……だと?」
夢という単語に、いままでの出来事が収まるところに収まり、すんなりと答えが見つかる。
自分が突然草薙の身体になるなど、夢以外あっていいはずがない。
(夢……だったのか……)
もう一度自分の手を見る。触ると、荒れてざらざらし、爪を立てると痛みもある。
「夢、だったのか……」
飲んでいる間に、いつの間にか寝てしまったらしい。心臓はいまだにどきどきしているが、ほっと安堵の息がもれた。
「なんだ、そんなにも怖い夢だったのかよ」
「あの、旦那。なんで旦那がおれの夢のことを訊いたりするんだ? しかも、どうして悪夢だと……」
「おれの口から真相は言えねえよ。おれだって命は惜しいからな」
そのひと言で、トグサは草薙が何かしたのだと気付く。
「少佐……。おれに何かしましたね?」
「それより、誤解って、どんな誤解だったの?」
草薙はトグサを無視して重ねる。
「言いたくありません」
草薙の目に、冷たいものが走った。内心びくつくトグサだが、悟られないよう睨み合う。両者とも決して引こうとしない。
「まあ落ち着け、トグサ。少佐も」
間に挟まれた格好のバトーが、助け舟を出す。了承を得るように、彼は少佐に顔で問いかけた。草薙はしょうがないと、小さく肩をすくめる。
「おまえ、頼んだジントニックを少佐がひと口先に飲んだのを覚えてるか?」
「ジントニックを? ……ああ」
トグサの頼んだジントニックは、いまも手元にある。ほとんど空になってはいるが。バーテンから受け取るよりも早く、草薙が掠め取ったのを怒った記憶もある。
「そのときにな、ちょっと細工をしたんだよ」
「細工?」
「そ」
草薙は小さなカプセルをつまんで見せた。ゴマ粒にも満たない。
「この中には最近摘発された組織が開発していた、マイクロマシンが入っている。これを摂取した者は、急激な睡魔に襲われ、思い出すのも恐ろしい猛烈な悪夢を見るという。その恐怖は人間に隙を与え、そこからゴーストハックを仕掛けてくるという仕組みらしい」
「……どうしてそれを、少佐がいま持ってるんです」
噛みつきそうな目で、トグサは草薙に訊ねる。自分の身に起こったことは、だいたい想像できた。
つまりはこの怪しげなマイクロマシンを、ジントニックに混入されたのだ。
草薙は、含みのある目で挑戦的に笑んで答えた。
「つまらんことは気にするな。敵の持ち物を知ることは必要だろう? おまえが途中で目を覚ましたということは、どうやら効果は完璧ではないらしいな……」
「ちょっ! ちょっと待った! じゃあなんだよ、おれはもう少しでハッキングされるところだったってのか?」
「安心しろ。既に組織は摘発されている。この場に限り、そんな心配は必要ない」
草薙の言葉に絶句するトグサ。酔いが一気に醒めた。助けを求めるように、バトーを見た。
「一応おれは反対したんだ。ここで使うのは正規の使用じゃないし、それに実験台に生身を使うにしても、妻子持ちよりもサイトーのほうが適任なんじゃないかって」
「もちろんわたしも最初はそのつもりだった。ここに誘ったのも、何かあったとき、おまえたちにサイトーの援護を頼もうと思ったからだ。だが……、おまえはわたしのことをちゃんと判っているようだったからな。―――ひとづかいが荒いって。当然の結果だろう?」
トグサの背筋を、冷たいものがすっとおりてゆく。
こちらを見るバトーの顔は、同情を示すもの以外何もなかった。
その向こうに見える草薙の顔は、まるで修羅を秘めたモナリザだ。
敵にしてはならない者を敵にしたのだと、トグサは悟った。
まさか、酒の席での愚痴ではないか。
「それは……、それはあんまりっスよ」
蚊の鳴くような声のトグサ。
「それはまあ置いといて。で、どんな夢を見たんだ? 誤解というのは、何が誤解なんだ? 浮気現場を奥方に押さえられたとか?」
草薙はトグサの心情などまったくおかまいなしで訊いてくる。
トグサの中で、夢でのワンシーンがよみがえる。仕組まれた夢とはいえ、この女の胸を突付いてしまった自分が情けなくて恥ずかしくて、悔しかった。
トグサはしばらく自失していたが、カウンターに金を置くと、肩を落とした格好でハイスツールから降りた。
「どうした?」
「帰ります」
トグサは草薙ではなくバトーに言う。
「わたしの質問に、まだ答えていないぞ」
草薙が身を乗り出す。だが、トグサは彼女と目を合わせたくなかった。
「質問の答えはこうです。『現状のほうが、夢より恐ろしい』。じゃ、お先に」
「お、おう。気をつけてな」
バトーの声は、あまりにも同情に溢れていた。
ふたりに見守られながら、うなだれたトグサの姿がドアの向こうに消えていく。
カウンターに残された草薙とバトー。
「おまえ、ちょっとやりすぎだったぞ。見たろあの悲愴な背中」
「あら。先入観なく実験すべきだって言ったのは、バトーじゃない」
「そりゃそうだが……。でもあの落ち込みは尋常じゃないぜ」
「自業自得よ。誰かさんがひとづかい荒いだなんて言うから」
バトーはまじまじと草薙を見る。
「おまえ……怖えオンナだな、まったく」
「褒め言葉としてちょうだいするわ。で」
草薙は小さく笑って再びグラスを傾ける。
「トグサの見た夢って、どんな夢だったのかしら。誤解って、気になるわぁ……」
「……」
バトーは答えられなかった。草薙の妖しげな笑みは、悪魔そのもの。
こいつだけは敵にまわしたくねえ。
バトーは今夜本気で、そう思った。
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