抜けるような青空を背景に林立する高層ビル群。
透明な風に乗って鳥たちが空を滑り、ビルの間へと消えてゆく。
ぼんやりと、その光景をトグサは屋上で眺めていた。
「ずいぶんと寂しい背中してるじゃねえか」
手すりにもたれるトグサに、バトーの声がかかる。
「珍しいな、こんなところで飲んでるのか」
トグサの手に缶ビールを見つけ、にやりとするバトー。だが、すぐに眉を曇らせた。
気配を探るように軽く顔を動かしただけで、トグサは何も答えない。
今日は早番で既に上がり、明日は一日非番のはず。いつもなら待ちきれないと家へと急ぐのに、どうしてこんなところでひとり酒など飲んでいるのか。
トグサらしくない。
「どうした?」
「何て言うのか……、帰りたくなくてね」
「んあ?」
「二律背反っていうのか……」
「あ?」
トグサの声は、粘るように重たい。
ためらい、言いよどみながら、大きく息を吐く。
苦しそうだ。
ビールをあおった。
足元には、空になった缶と、まだ空いていない缶が転がっている。
荒れている ――― ?
「9課はさ、やりがいがあるよ。たぶん一番、おれには合ってる」
「あ、ああ」
あまり刺激しないよう、そっと隣に並ぶバトー。
任務で失態をしたわけでも、煮詰まるような任務の只中にあるわけでもない。
ちらりと窺うと、ここではない、まるで遠いどこかを求めているような切ない顔をしていた。
その顔が、苦しげにゆがむ。
「 ――― 別れることに、なるかもしれない」
「……え?」
咄嗟に頭をよぎった言葉に、耳を疑うバトー。
何が、とは訊けなかった。
たぶんこれは、全然違う何かのことだ。
けれどトグサは、無情ともいえる声音で続けた。
「離婚、するかもしれない」
今度こそ、バトーは言葉を失った。
考えられない。
9課唯一の所帯持ちにしてリーダーでもあるトグサ。その存在は、ある意味メンバーの希望ですらあった。
不仲という話は聞いたことがない。
どころか、いつもノロケ話ばかりでふざけんな! とからかわれてばかりなのに。
「お前、不倫でもしてたのか?」
「まさか」
「だ、だよなぁ」
つい、ほっとするバトー。
「でも、だったらどうして」
「あの事件、覚えてるだろ? 娘が巻き込まれた……」
傀儡廻の事件のことだ。操られた親により、その子供が電脳化させられる ――― 。
その事件を追う過程でトグサは傀儡廻に狙われ、危うく被害者になるところだった。
トグサが自らの頭を撃ち抜こうとしたあの衝撃は、忘れられない。
だが、もうそれは既に解決した事件だ。
そう思ったところで、バトーははっとする。
「それが原因なのか?」
「――― ああ」
トグサはビールをあおる。だが缶には残っていなかった。足元からひとつを取り上げ、開けた。
「9課のこと、話さなきゃよかったのか? 話さなかったら、一被害者でいられたのか? 犯人だけを憎んで、互いに慰めあって、子供たちのことをただ心配するだけの親でいられたのか? あいつに、おれを責めさせずに済んだのか?」
まるで、血を吐くようだった。
バトーがトグサの妻に会ったのは、数えるほどしかない。
あの可憐な女性が、夫を責める?
想像もつかないが、トグサの苦悩はそれを語っている。
「家族か9課かだなんて」
―― あなたの仕事のせいで、なんて言いたくない。でも、それが事実でしょう? あなたの仕事が、こういう事態を招いたんじゃないの。
そう問い詰められ、返す言葉がなかった。
―― 子供たちに危険を強いてまでする仕事なの? あなたはひとりで生きてるんじゃない。家族がいるのよ。どうにかならないの!?
どちらかといえば従順な妻だ。
その妻が、こればかりはと一歩も引かない。
9課を、辞めて欲しいと懇願するのだ。それでなければ、別れたいと ――― 。
彼女の言い分はもっともだ。正しい。どこも間違っちゃいない。
夫の仕事のせいで家族が危険に巻き込まれて平気でいられる妻など、どこにいる?
むしろ、いままでよく堪えてついてきてくれたとすら思う。
だが ――― トグサは9課の一員だ。
仕事はやりがいがあり、達成感もある。表舞台に立てないからこその、優越感すら感じていた。
いまでは部下を抱える責任ある立場にいる。
よかれと思って、妻に9課のことを話した。その果てに行き着いたのが、すれ違う眼差しだったとは。理解してくれていたと、都合よく決め付けていただけなのか。
まさか自分の家族が犯人に狙われるなど、思いもしなかった。狙われる前に、犯人を捕らえられる自信があった。
――― けれど。
すべてが覆され、狂ってしまった。
「おれは、何のためにここにいるんだ? 何のために、いままでやってきたんだ?」
「お前さんは、よくやってきたと思うよ。だからこそ、大抜擢もされたんだろう?」
「でも」
「ああ、そうだ。一番の理解者に拒絶されちまっちゃァ、意味はねえよな」
バトーは転がる缶ビールを拾い、プルトップを開ける。開けたものの、その手を口元に上げようとしない。
風の音にすがるように、じっと黙り込む。
「――― そういう、もんなんだよ」
諦めにも似た引きずるような声に、トグサの肩にぴくりと緊張が走る。
「おれたちの仕事ってのは、そういうもんなんだ。守る者の存在が、足を引っ張る。守っても、理解はしてもらえない。 ――― だからこそ、おれたちはお前が羨ましかった。家族のいるお前が、希望でもあった」
「希望が、これか……」
皮肉に、トグサは口元をゆがませる。
突然、バトーはトグサに身を翻した。
「別れたりするな、トグサ。本当に大切なものを、見失うんじゃない」
「旦那……」
「お前はもともとが思いつめるタチだ。思いつめると視野が狭くなって、答えを見失う。 ――― と言っても、そう簡単に答えは出ないだろうけどな」
缶ビールをひと口飲んで立ち去ろうとしたバトーは、ふと足を止める。
「答えを、出してもらいたくもないけどよ」
トグサが振り返ると、軽く手を上げて立ち去るバトーの背中があった。
その肩は、気落ちしていた。
バトーの姿は、それ以上何も語ることなく扉へと消えていった。
風が、足元の空き缶をからからと転がす。
「おれだって ――― 」
それ以上、声には出せなかった。
おれだって、答えは出したくない。
出したくなくても、出さなければならないのだ。
張り裂けそうな吐息がこぼれ、崩れるようにトグサは手すりにもたれ、うなだれるしかなかった。
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