音もなく、静かに扉が閉まる。
公開用寝室での就寝の儀式を終え、エステルは私的寝室に移っていた。女官たちも退出し、彼女は広い寝室にひとりだけになった。
それを見計らったかのように、折り重なっているカーテンの間から、ひとつの影がするりと現れる。
エステルは驚かない。
何故なら、それは見知った影、―――アベル・ナイトロード神父だからだ。
「お疲れさまです」
「こんばんは、神父さま」
ふたりは闇に溶けるようなひそやかな声で挨拶を交わす。
一国の女王とヴァチカンの神父。この密会は、誰も知らない。
心を許す側近にすらも気付かれてはならない、誰にも言えない関係である。
もしも知られたら、国際問題にまで発展するのは必至。
お互いそれを判っていたけれど、もうずっとアベルは忍んで来てくれる。
厳しい警備の中、アベルがどうやってこの部屋に侵入するのか、エステルは知らない。知らないけれど、追求はしていない。
危険を冒してまで自分に逢いに来てくれる。ただ、それだけで嬉しい。
「いま、すごく眠たいとかってあります?」
「いいえ。そんなこと、ちっとも」
体調を気遣うアベルに、エステルは首を振る。
アベルが久しぶりに来てくれたのに、眠たいから帰って、など言えるわけがない。苦しいくらいに逢いたくてならなかったから、眠気などどこかへ行ってしまった。
アベルは壁際のスツールに腰掛け、エステルに微笑みかける。枕元にひとつだけ灯された読書灯のほの暗い明かりの中でも、アベルの穏やかな表情ははっきり判る。
「お元気そうでなによりです」
「イヤ、それなんですがね」
エステルの言葉に、アベルは顔をゆがめた。
「聞いてくださいよ、今日は犬に咬まれちまいまして」
「えっ!」
思わず声をたててしまった。はっと口に手を当て、エステルとアベルは周囲の気配を窺った。
誰かがやってくる様子は、―――ない。
「犬に咬まれたって……神父さま、大丈夫なんですか?」
エステルはひそひそと声を落として訊く。
「おかげさまで命は助かりましたが。だってね、あのイヌったら、わたしのパンを食べようとするんです。あげませんって言ったら、このざまです」
アベルはひとつ肩をすくめて右手首をエステルに差し出した。
近寄って見ると、くっきり歯形が残っている。出血の痕もあった。けろりとしているアベルとは対照的に、その傷は痛々しく、エステルの胸を締めつけた。
「神父さま……、これ、すごく痛いんじゃありません?」
「そんな顔しないでください。エステルさんの顔を見たら、痛いのなんて消えちゃいました」
言って、アベルはもう一方の手でエステルの頬に手を添えた。
エステルは目を伏せ、頬でアベルのぬくもりを感じた。手袋を外したアベルの指は、なんて繊細で優しいのだろう。
そして、―――アベルの唇は、なんて甘やかなのだろう。
自分の唇で受け取るアベルの愛情に、エステルは泣きそうになる。
「どうしたんです?」
透明すぎるほどに澄んだ青い瞳で、アベルはエステルに問いかけた。
エステルは何でもないと小さく首を振る。
(結婚話が持ち上がっているなんて、神父さまには言えない……)
王ともなれば、国同士の結びつきを強めるため、政略結婚をするのはごく自然なこと。それが自分の身に起こりつつあることを、エステルはどうしてもアベルに知られたくなかった。
政略結婚はしない態度を貫くつもりではあるが、もしもアベルに知られたら……、彼は必ずエステルに強く勧めるだろう―――政略結婚を。
だから、エステルは言うつもりはなかった。
本当に、そうなることが怖くて。
「わたしから神父さまに逢いに行けないのが、つらくて」
アベルはエステルを包みこむように抱き寄せた。
「教皇庁をクビになってでも、わたしから逢いに来ますよ。安心なさい。何弱気になってるんです」
「突然、消えたりしないでください」
「消えません」
「わたしを、ひとりにしないで」
「そんなこと、しません」
アベルは優しく否定する。
けれどエステルは、胸の奥深くにわだかまる不安を消せないでいた。
エステルが口にしなくとも、いずれメディアの噂などで知られてしまうだろう。アルビオン女王に持ち上がる政略結婚の話を。
そのときが怖かった。
アベルが来なくなる日が、怖かった。
エステルはぎゅっと、アベルの僧服を握りしめた。
「どこにも行かないで。ずっとずっと、わたしのそばにいて」
「―――もちろんですとも」
アベルの声音は変わらない。
変わらないけれど、アベルはもう知っているのかもしれない。
今日を最後に、いなくなってしまうかもしれない……。
その不安を押しこめたまま、そばにいて欲しいという以外、エステルは何も言えなかった。
腕の中で不安を隠そうとしているエステル。
アベルは、小さな身体で国を背負って立つ彼女を、ただただ抱きしめる。
パルチザンとして戦っていた身寄りのない尼僧だったエステル。
運命に翻弄されても、果敢に立ち向かうことを選んだエステル。
愛しくて愛しくてたまらなかった。
「ずっとエステルさんのそばにいます。約束します」
せめて、自分の前でだけは、普通の女性でいさせてあげたい。
甘えたいだけ、甘えさせてあげたい。
アベルは愛する女性を抱きしめた。
ふたりの影を、消された読書灯の作る闇が、隠していった―――。
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