夕暮れの一幕
 〜トリニティ・ブラッド〜 if
 
    
 暑い夏の時期も、ようやく終わろうとしていた。太陽は焼けつくような鋭い熱を、ひそめつつある。
 夕方を迎えるこの時刻、ゆるい風には身体がほっとするような感触があった。
 エステルは教皇庁国務聖省に背を向け、颯爽と歩いていた。
 その肩は、何故だかいかっている。
「エステルさぁん、待ってくださ〜い」
 情けない声が、彼女の後を追ってきた。小走りに現れたのは、黒い僧衣に身を包んだ、背の高い銀髪の男。だが、その声に気付いているはずのエステルは、止まる素振りを微塵も見せない。
「エステルさんってば! 待って、怒らないでくださいよ〜」
「怒ってなんていません」
 エステルは苛立たしげに足を止めると、間近な男を振り仰いだ。頭ふたつぶんほど高いところにある彼の顔が、ちょっと緊張にこわばった。
「あたしは呆れてるんです! いいえ、神父さまにではありません、自分自身に呆れてるんです。だから、ついて来ないでください!」
 そう言い放って、エステルは再び歩き出す。
 事の発端は、スフォルツァ枢機卿とアベルが、エステルの前で、アベルの過去にかかわる何やら暗黙の了解話をしたことだ。
 任務がらみならば、エステルだって気にはなっても自分を納得させることはできる。だが、枢機卿の部屋で、任務報告のついでの話としての示し合いは、我慢ならなかった。
 アベルと知り合って5年が経とうとしていた。
 この間に、アベルのことをいろいろと知った。けれど、スフォルツァ枢機卿が知っているらしいアベルの過去を、エステルは知らないでいる。アベルは、教えてくれないのだ。
(猊下には教えても、あたしには教えてくれないんだ……!)
 カテリーナに嫉妬している自分が、恥ずかしくて情けない。そんな自分もまた、許せなかった。
 腰あたりにまで伸びた赤い髪を風になびかせ、エステルはアベルに背を向けた。
 けれど、アベルの気配はなくなることなく、常に数歩後ろにあった。
 ためらいのようなものも、感じられる。そんな遠慮じみたアベルの態度が、よけいエステルを苛立たせた。
「神父さま。いい加減にしてください」
「何がです?」
 返ってきたのは、意外なほど静かな声だった。
「ついて来ないでくださいと申し上げたはずです」
「困りますねえ。私はただ、こっちに歩いているだけですよ」
「……」
 気にしすぎだったのかしら。エステルはちょっと恥ずかしい。だが歩き出すと、それを見計らったようにまたアベルは彼女の数歩後ろをついてくる。
 こうなったらと、エステルはわざと教皇庁内をぐるぐる歩いた。―――アベルはそのとおり、ついてくる。
 日が傾き、夕闇が降りてもなお、ふたりはわけの判らない追いかけっこをしていた。
(いい加減ばかばかしくなってきた……。知らない。もう帰ろう)
 むきになっていた気持ちも薄れそう思ったとき、背後にあったアベルの気配が消えているのに気付いた。
 いつの間にか、ひとりで歩いていたのだ。
 それがまたよけいに悔しい。
 大きく息をつくと、エステルはきびすを返した。少しだけ、アベルの姿を期待して。
 しかしそこには、誰もいなかった。
「―――まったく、あの根性なし」
 呟いた声は、驚くほど悲しげだった。エステルは唇を固く結んで、自分の部屋へと向かった。
 が、少し行くとそこに信じられないものが―――転がっていた。
 夕闇にとけそうな黒い僧衣。銀の髪が生えている。その大きな物体が、道の真ん中に転がっている。というか、のびている。
「……ナイトロード神父?」
「ああ……、主よ、なんだかエステルさんの声が聞こえてきます」
「何してらっしゃるんです?」
「でも声がちょっと怖い気がします……」
 弱々しい呟き。年単位の付き合いのエステルには、彼の事情はすぐに読める。
「神父さま。お腹が空いたのなら、そんなとこに転がっていてもどうにもなりませんよ」
「あぅ。……ひどい」
 けれど、こちらを仰ぎ見たアベルの眼差しは、甘やかだった。エステルは思わず目をそらした。
「あたし。もう帰りますから。まだ報告書も残ってますし」
「エステルさん」
 起き上がったアベルは、エステルへと腕を伸ばす。さわさわと、風が木々の葉を鳴らしていた。頬にかかる髪を耳へとかけ直し、エステルはためらいをごまかす。
 アベルはエステルの腕をとった。はっとするエステル。
 任務や戦いにおいて、エステルはアベルにこうして腕をとられることがある。けれどいまは、全然違う意味のものだ。出逢って5年。エステルはすでに少女ではなく女性。この奥深い神父にとってエステルは女性であることを、彼女は知っている。
 そうして、そう見てもらいたいと願っている自分も。
「あなたを、傷付けたいわけじゃないんです」
「何のことでしょう?」
「ほら。それですよ」
 エステルの腕を離さないまま、アベルは立ち上がった。エステルは顔をそらしたまま、薄闇に呑まれようと行く石畳に目を落としていた。
 ふわりと、エステルはあたたかな感触に包まれた。
 背中に大きな腕がまわされている。そして頬には僧衣ごしにアベルのぬくもりが。
「いつまでたっても、意地っ張りなんですから」
 小さな子を諭すように、アベル。
「子ども扱いしないで下さい」
 反論するが、けれど悔しいかな抱きしめるアベルの腕をそのまま受け入れてしまっている。
「私とカテリーナさんは、あなたがやきもちをやいてくれるような間柄じゃないですよ」
「別に……そんなんじゃありません」
 アベルは、エステルの言葉を小さく笑ってかわす。
 かなわない。エステルは思う。
「すねるエステルさんも、なかなか悪くないです」
「おかしなことおっしゃらないで下さい」
「おかしなことじゃないですよ、全然。―――傷付けてしまって、すみません」
 ぽつりと、アベルは言った。
「カテリーナさんには、立場上私の過去を知らなければならない事情があって……。決してあなたに秘密にしたいというわけじゃないんです。でも、ただ、その……何ていうか、やっぱり、私も落ち着いて自分の過去と向かい合った上でエステルさんにもそれを知ってもらいたいし……。たぶん簡単に受け入れられてもらえるような過去でもないわけですし……、その、だからずっと黙っているつもりではなくて……」
 うまく言葉を選べない不器用な神父に、エステルは腕の中で小さく頷いた。胸の内でからまりあっていたもやもやしていた思いが、すっと解きほぐれていった。
「いいえ、いいんです。いいんです、神父さま」
「エステルさん……」
「わたしの、やきもちだったんですから」
「すみません」
 謝らないで下さい。そう眼差しでエステルはアベルに伝えた。
 アベルの冬の湖色をした瞳が、薄闇の中、優しく揺れた。
 顔にかかるエステルの髪をそっとはらい、アベルはそのまま彼女の頬に手を添わせた。
 エステルは応え、静かに目を閉じる。
 甘く重なる唇。
 エステルの胸は熱くなった。
 アベルは自分を想ってくれている。何を不安になっていたのだろう。彼の過去がとても重たいものらしいことは、知っている。ぽつりぽつりと、ときどき話してくれることもある。
 急ぐ必要なんてない。アベルは、そばにいてくれるのだから。
 夕闇の中、ふたりは抱きしめあった。
 ―――の、だが。
「はぅ」
 突然、長身の神父がエステルへと倒れこんだのだ。
「しっ、神父さま !? 神父さまどうなさいました !?」
 エステルはあわてた。
 しかし、一瞬後にはすべてを察する。
「ああ、主よ。なんだかお腹が空いて世界がまわってますぅ……」
 がっくりとエステルの身体から力が抜けた。そのまま、ぐにゃりと神父を倒れるに任せた。
「では。あたしはこれで失礼いたします神父さま」
「エステルさぁん」
「情けない声出さないで下さい。何だか、……情けないです!」
 言い捨て、エステルは今度こそ振り返らずに歩き出した。
「待ってくださいエステルさん〜。ああ、主よ、エステルさんが冷たいです……」
 何と背中でぼやかれようとも、今度はエステルも歩みを止めない。
 アベルが空腹を訴えても、エステルにはどうしようもない。これがアベルの照れ隠しと判るからこそ、エステルは振り返らない。
 やきもちをやいた自分のもとにすぐ駆けつけてきてくれたアベル。
 抱きしめ、くちづけてくれたアベル。
 彼の言葉。彼のぬくもり。
 エステルにとってそれはどれほど大きなものか。
 心はとても、すがすがしい。
「神父さま! そこでずっと転がってると、蚊に食われてしまいますよ!」
 背中に向かってそう言って、エステルは背後の神父に手を振った。
 
 
 

 ごあんない目次
     *あとがき*

 アベルと出会ってあまり時間が経たずに、アルビオンの女王の座についたエステル。
 その時間をゆっくりとのばし、何事もなく彼との出会いから5年経ったという設定です。
 
 わたしの中ではありえないほど甘々なふたり。
 もっと踏みこんで書いてみたい気持ちはあるのですが、短編に収めるにはなかなか難しいですね。
 
 
高萩ともか・作