聖フェルディナンド祭 ――― 。
その起源は200年以上も前にさかのぼる。
ローマを襲った地震で被災した人々に食料と治療と希望を与えた聖人フェルディナンドを讃えて始まった祭りだ。毎年11月の第1日曜日に始まり、3日間続く。この間は学校も官公庁も基本的に休みとなり、皆がみな、祭りを楽しむのである。
この3日間に限っては、ヴァチカンも多少のことなら目を瞑る。そのためいつしか恋人たちの祭りとも謳われ、だからこそ、人々はこのときとばかり弾けるのだ。
そんな祭りも最終日を迎えていた。街中は華やかで、音楽と彩りに溢れている。
エステルはこの日、日曜礼拝で知り合った少女アリスに付き添い、彼女の片想いの相手、ロルフを探していた。
祭りの間に告白するのだと言う。
ひとりでは不安なのでついてきてもらいたいと懇願され、ちょうど休日となっていた最終日に、付き合うことになったのである。
彼はアリスと同じ15歳。赤みがかった癖のある金の髪をしているらしい。
「あっ」
アリスは声をあげる。
仮装した人々の向こうに、目当ての人物がいた。友人らしき若者たちと広場の催しを眺めている。
「どうしよう」
アリスはエステルに助けを求めた。だが、エステルは優しく首を振る。
「正直な想いを、伝えればいいのよ。あたしも、神さまも、聖フェルディナンドも、あなたを応援している。大丈夫。まっすぐな気持ちなんだもの、怖がることなんてないわ」
「……うん」
アリスは自分に言い聞かせるように頷くと、エステルのもとを離れた。
ロルフは、ひとごみからアリスを見つけたようだ。軽く手を上げたその顔はなんだか嬉しそう。
ロルフは仲間たちからアリスとともに離れていった。
(うまくいきますように)
エステルは、アリスの恋の成就を神に祈った。
ふたりの姿がひとごみに消えたのを見届け、もう尼僧寮に戻ろうかと思ったときだった。
「あんたいい娘だねえ」
突然、すぐそばの出店の主人が話しかけてきた。顔半分を隠す白い仮面と、緑色の衣装をこちらに差し出している。
エステルはまわりを見まわすが、主人が見ているのは、どう考えても自分である。
「そう。あんたのことだ」
エステルはきょとんとしたまま、主人とその衣装を見つめ返した。
(なんでこうなっちゃうのかな)
深い緑色の衣装を服の上から着て、エステルは街をそぞろ歩いていた。
結局あの主人は、この衣装一式をエステルにタダでくれたのだ。友人の恋の応援をする姿に惚れた、とかなんとかで。固く断っても主人は引かず、彼が酔っ払っていたこともあって、言われるままにとりあえず着てその場を離れた。
だが今度は街の雰囲気に呑まれて、脱ぐ機会がない。
仮面をつけているから、道行く誰も、彼女が尼僧エステルと気付かない。
ここにいるのに、ここにいないようだ。
それは不思議な感覚だった。同時に、純粋にこの空気を楽しむ自分にも、気付かされた。
アリスがこの祭りに告白しようと思ったのも、判る気がした。
――― そのときだった。
エステルの意識が、何かに強烈にひきつけられた。
首をめぐらすと、広場を埋めつくす人々のはるか向こう、青いガウンを羽織った背の高い人物と、目が合った。
そのひとは銀の髪をまっすぐに垂らし、顔の上部を仮面で隠していた。
すべての音が、止まった。
そのひと以外、目は何も映さなくなる。
吸い寄せられるように、エステルは青いガウンの人物に足を向けた。そのひともまた、エステルに何かを感じたのか、こちらへとやってくる。
仮面をつけたふたりは、間近で足を止め、見つめ合った。
(そんな……まさか……)
仮面の下から覗く青色の瞳に、エステルはかける言葉を見失う。
どうしてこんな格好なさってるんです?
いつもならそう簡単に訊けるのに、喉の奥で声は、言葉にならないまま引っかかる。
それは目の前の青年もまた、同じようだった。
呆然とするエステルの背中が、誰かに押された。
ふいをつかれ、エステルは青年の胸に倒れこむ。
厚い胸板の感触。背中にまわされる青年の腕。
エステルははっと我に返った。
「あっ、あのっ、すみません……!」
自分の声に、ようやく周囲の音が飛び込んできた。まるで止まっていた時間も動き出す。
「大丈夫、ですか?」
「……はい」
頷くのもやっとである。
「ここは混みあってますから、あちらに」
青年はエステルのはるか頭上から、そう言った。
青年はエステルを守るようにその肩に手を添えて、広場を外れた。
どうしてこんなところにいらっしゃるの? どうしてこんな格好をなさっているの? どうして、何も言ってくださらないの?
うず巻く疑問は、言葉にならない。
広場の端までやってきて、ようやく青年の足は止まった。
青年はエステルを見下ろすが、どんな言葉をかければいいのか迷っているようだった。
エステルの胸は、はやる鼓動で破裂しそうだ。
(どうしよう……、どうすればいいの……?)
先ほどまでいた広場中央で、声があがった。青年が振り返る。
「 ――― 見てください。あんなにも高いところをひとが」
青年は広場を指し示した。
困惑しながらも、エステルはそちらに目を移してみる。
広場では、竹馬に乗った一団が、どこかの姫君や王子の格好をして、ひとびとの間を歩いていた。歓声と拍手をあびながら、彼らは向こうの通りへと消えてゆく。
「すごい……。怖くないのかしら」
思わずこぼれた。青年も感心半分、遠慮半分に呟く。
「わたしだったら、遠慮したいですね」
「わたしもです」
エステルと青年は、顔を見合わせる。
竹馬の一団のおかげで、エステルの気持ちは少しほぐれ、ふたりの間に微笑みが生まれた。
エステルは、着けていた仮面に手を伸ばす。
「そのままで」
青年は仮面を外そうとするエステルの手を止める。
「でも神……」
青年は人差し指を立てて、エステルの口元に伸ばした。
「 ――― アベリーナと、申します」
「ええっ!?」
思わずエステルは引いた。だが青年アベリーナは、そんな彼女を見つめるばかり。
「あなたを、ツィラーグと、お呼びしても構いませんか?」
その、アベリーナと名乗る青年の驚くほど真剣な眼差しに、エステルは射抜かれる。
――― 息が、止まる。
彼がいまエステルに注いでいる眼差しは、恋人への眼差しそのものだったからだ。
聖フェルディナンド祭の最終日。仮面をつけた男と女は仮装をし、本当の名前をその内に秘め、偽名で愛をかわす。
報われない、恋人たちの祭り。
彼はこの祭りに、ともに酔おうと誘っている……?
相手がエステルと判った上で。
仮面をつけたふたりは、聖職者でもなんでもない、ただの男と女でしかないのだと……。
彼のこんな眼差しは初めてで、エステルはどうすればいいのか判らない。
(からかってらっしゃるの? でも……)
自分の想いと立場と、彼の眼差しとの間で、激しい葛藤があった。
返答をじっと待つひたむきな彼の眼差しに、心は強く揺さぶられる。
それは、どれほど願った想いだろう。
聖フェルディナンド祭だからこそ、勇気を振り絞ってもいいのでは?
アリスのように。
まっすぐな気持ちを怖がることなんてないと、いま更ながら、アリスを励ました自分の言葉が、胸に迫る。
禁断の果実に手を伸ばす思いで、エステルはゆっくりと頷いた。
「怖いですか?」
エステルの沈黙に、アベリーナが気遣う。
「 ――― 少し」
「そうですね」
アベリーナはエステルを否定しなかった。
「でも今日1日だけ。きっとこれは主が与えてくださった時間なんです。夢のような時間でも、夢の終わりまでは、これもまた別の現実なんだと思います」
(神父さま……)
アベリーナは想いを紡ぐように、エステルに語る。
「この違う現実を、わたしは、生きてみたいと思いました。あなたと出逢って」
胸が震えた。
聖フェルディナンド祭。本当に、これは夢なのかもしれない。
この夢を生きたい。何もかも忘れて、ただひとりの女性として彼と一緒にいたい。
今日1日だけは、恋人同士になっていたい……!
エステルがもう一度頷くと、彼女の肩を包むようにして、アベリーナの大きな腕がまわされた。
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