灯台下暗し
〜トリニティ・ブラッド〜
 
    
 ローマの町を、ひとりの尼僧が歩いている。
 その名はエステル・ブランシェ、17歳。頭巾から紅茶色の髪がこぼれるのも、なかなか似合っている。
 そんなエステルには、最近微妙に気になる男性がいる。
 もちろん、自分が尼僧だということは、ちゃんと判っている。だからその気持ちは、恋愛へと発展させるべきではないと、頭では理解していた。
 けれど ――― 、こうして、ほら、道の向こうからやってくる彼の姿を見つけてしまうと、やはり胸は躍ってしまう。
 町を歩く誰よりも背の高いアベルは、遠くからでもひと目に付く。そのうえ、長い銀髪を揺らし、透明な青い眼に整った顔立ちの青年である。彼が神父であろうとなかろうと、気になるなというほうが無理なのかもしれない。
 それに。
 エステルは、神父アベルの秘密を知っている。
 詳しいことは判らないけれど、彼は吸血鬼に怖れられる存在なのだ。
 吸血鬼と対峙し、危機に陥ったとき、彼は不思議な変身をする。まるで、聖人の奇蹟のように。
 穏やかさの結晶のようなあの青い瞳は、血の滾るような赤色へと変わり、背中に流れる銀の髪も、敵を前にした狼のように奮い立つ。
 鮮やかに、アベルはアベルの顔をした別人へと変わる。
 子供たちが憧れるヒーローのように、変身を果たした彼は見事窮地をきりぬけてゆく。
 そして力のみの勇者ではなく、その胸には、深い慈悲も息づいている。
 たぶんきっと、アベルはエステルには遠く及ばないくらいの、世界の何かを知っている。
「あ」
 近付くアベルが、エステルに気付いて子供のように顔をほころばせた。
 エステルの胸が、うずく。
 いつもいつも、アベルのこんな笑顔を見ると、戸惑うほどに嬉しくなってしまう。
「エステルさ……!?」
 軽く手を上げてエステルに駆け寄ろうとするアベルの声が、――― 途中で消えた。
 同時にエステルは見てしまった。
 小石にけつまづき、これでもかという激しさで、ずべちょー!! と顔から地面に激突する神父アベルを……。
(ああ……)
 思わず、がっくりと目をそらしてしまうエステル。
 いったい誰が信じるだろう。
 道のど真ん中で無様に伸びている男が、誰の目も引く美青年であることを。もしくは、吸血鬼をも恐れさせる存在だということを。
 イシュトヴァーンで出逢ったあのとき、アベルの間抜けっぷりがまさかここまでとは思わなかった。
 というか、こんなアベルにほのかな感情を抱いてしまった自分が悲しい。いや、悲しさなんて通り過ぎて恥ずかしい。――― が。
 あまりにも凄まじかったアベルの転びっぷりに、道行く人々は声もかけられず呆然としている。その中を、エステルは、ひくひくしながらもいまだ起き上がれないアベルへと駆け寄った。
 甘いなあと思いつつ。
 でもきっと、アベルは自分に起こしてもらいたいのかもとも思いながら。
「しっかりしてくださいまし、神父さま」
「ううう、主よ、なんだかわたしの顔がとっても痛いんです……」
「顔から転んでるんですから、当たり前ですよ」
 エステルの呆れた声が、動きを取り戻した人々の間に響いてゆく。
 エステルの手を借り、ようやくむくりと起き上がりだしたアベルだったが、――― まさかこの先もずっとアベルの面倒を見なければならないなど、このときのエステルには知る由もなかったのだった……。

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     *あとがき*

 『嘆きの星』と『熱砂の天使』の幕間のイメージで書きました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
高萩ともか・作