「判りました、ありがとう」
エステルの提出した資料を机の上に置き、カテリーナは静かに言った。その様子に、エステルは内心ほっと息をつく。
「ところで、アベルがまだつかまらないの」
困ったように、カテリーナは続けた。
「先日の領収書に関して呼び出してるのに、ずっと応答がないのよ。悪いけど、ここに来るよう探して伝えてくれないかしら」
「……、はい」
「面倒かけるわね」
「いえっ、もったいないお言葉にございます。失礼いたしますっ」
エステルはさっと頭を下げ、逃げるように執務室を出た。
扉を閉めたのを確認して、エステルは胸に手を置く。
カテリーナのアベルに対する親しさに、息が止まるかと思った。
(「アベル」って、神父さまのことを呼び捨てにしてた)
ときどき、カテリーナは意図的なのか、エステルの前でそう彼の名を呼ぶ。それを聞くエステルの気持ちを知ってか知らずか……。
エステルは小さく頭を振って、執務室を後にした。
中庭に落ちる日差しは、緑の間を通り、きらきらと石畳を輝かせていた。
教皇庁中をさんざん探しまわったすえ、ようやく辿り着いた新緑の景色の中に、ひとつの黒い色があった。
駆け寄ろうとして、はっと足が止まる。
向かいに、誰かいる……。
黒い影は高い背を軽く折り、誰かと―― 女性と話をしていた。
僧服に流れる銀色の髪が、木々の新緑に映えて眩しい。かすかに見える端正な横顔は、目の前の女性との時間に楽しそうだ。
(――― 誰?)
エステルは木の陰に思わず隠れた。
(やだ、隠れることなんてないのに……!)
けれど、足はすくんで動かない。
目だけは、求めるようにアベルを追っているというのに――― 動けない。
アベルは、何を話しているのだろう? 相手の女性は誰? 尼僧姿ではないが、アベルとはどういう関係?
(あのひと、神父さまと話をしても、怒ったりしないんだ……。あたしはいつも神父さまに苛々しちゃうのに……)
薄い金色の髪をした小柄な女性。エステルよりも幾つか年上に見える。
アベルと話している表情はとても幸せそうで、やはり声がかけられない。
(猊下から呼ばれてらっしゃるんだもの、こんなことしてないで早く行かなきゃ……)
判っていても、それでも足は動かない。
上体をやんわりとかがめて女性と話すアベルの様子に、エステルの胸は痛い。
そんなに、近付かないで。
(ふたりきりに、ならないで)
エステルが木陰で成り行きをじっと見守っているうち、相手が気付いたらしい。彼女が伸ばした手を追って、アベルがこちらに目を移した。
「あ」
エステルはあわてて視線をそらす。
木陰に隠れてふたりを偵察していたようで、なんだかばつが悪い。
事実、覗き見していたのだから、言い訳のしようがない。
女性はアベルに何かを言うと、笑顔と会釈を残してそのまま向こうへと去っていった。
軽く手を上げて彼女を見送ったアベルは、その姿が見えなくなるのを待ってから、エステルのもとにやって来た。
どんな顔をしているのか見るのが怖くて、エステルは顔を上げられない。
「どうしたんです、エステルさん?」
けれど、かけられた声はいつものどこか拍子抜けしたものだった。
「そんなところでじっとしちゃって」
「――― いえ、あの。いえ」
「何赤い顔してるんです? 日差しにやられちゃったんですか?」
こんな木陰で器用な方ですねえと、ぶつぶつ呟くアベル。
「そ、そんなわけないじゃないですか!」
強く反論した後で、エステルは自己嫌悪に陥る。
また喧嘩腰になってしまった。
あのひとは優しく微笑んでいたのに。
「それよりも! その、……先ほどの、一緒にいた方は、お知り合いなんですか?」
エステルは女性の消えた方向を目で示した。
アベルは何事もなかったかのようにそちらをちらりと見やる。
「ああ、レジーナさんですか」
「レジーナ、さん……?」
綺麗な名前だ。
「ええ、そうです。しばらく前まで国務聖省にいた方で、エステルさんが来る前までは、ときどきわたしの仕事を手伝ってもらってたんです」
「わたしが、来る前……」
それはエステルでは太刀打ちできない、どうしようもない過去。
レジーナの眩しい笑顔が、脳裏によみがえる。
「ま、エステルさんほど有能というわけでもないけど、レジーナさんほどできる女性もなかなかいなくて、って、あれ? 何言ってるんだろ、何だかわけ判んなくなってきちゃいましたよ」
「しばらく前まで国務聖省にいた、って、……どこかに転属されたんですか?」
踏み込んだことを訊くと怪しまれるとは思ったが、訊かずにはいられなかった。
アベルは気付かずに話し続けた。
「いや、還俗されたんですよ。ご結婚されたんです」
「――― え?」
エステルは目をぱちくりさせた。
いま、何と?
アベルはエステルに頷いて見せた。
「今日は還俗後のいろんな手続きのために来たんだそうです。懐かしくって中庭をそぞろ歩いてたんですって。こんなところで久し振りに会えたもんだから、話しこんじゃったみたいですけど。それだけですよ」
「……」
甘やかに言うアベル。エステルの気持ちはお見通しだったのだろうか。
「それにしても」
アベルは意味深にくすりと笑った。
「木陰でこっそり窺ってるエステルさんってば、カワイイですよね〜」
「ええっ!?」
「そんなにも気になるんでしたら、素直に言ってくれればいいのに」
「すっ、素直にって!?」
声が裏返りそうになるのを、懸命にこらえるエステル。
「やだなあ、もう。ちゃーんとお見通しですよ。エステルさんのことは、手に取るように判るんですから」
「判るって、な、何がです」
まさか、アベルは自分の気持ちを知っているのだろうか。
エステルは緊張する。
「もちろん、エステルさんがレジーナさんがくれたこれを狙ってるってことがですよ!」
鼻息すら荒く、アベルはポケットを叩いてそう断言した。
「だめですよ。そんなもの欲しげな顔をしててもあげませんからね。あ、でもエステルさんにはいつもお世話になってますからね、いっこだけなら、しょーがないなー、あげてもいいかな〜?」
アベルはポケットから、ぼろぼろになったむきだしのクッキーをひとつ取り出し、エステルに手渡した。
(ク、クッキー?)
「……ありがとうございます」
(なんでまたそれが叩いたポケットから出てくるんですか……)
とりあえず礼を言うが、脱力するエステル。焦った自分が恥ずかしい。神父アベルは、こういう男ではないか。
そこでようやく、エステルは何をしに来たのかを思い出し、気付く。
「あの、――― あの、神父さま、イヤーカフスが見当たりませんが……」
アベルの耳にいつもある、銀色の輝きがそこにない。
指摘すると、アベルはああと思い当たるようにポケットをまさぐりだした。
エステルがぎょっとするのも無理はない。何故ならそのポケットは、いまのいま、クッキーを取り出した場所だったからだ。
「そうでした。なんか調子がおかしくて、レジーナさんと話しているときにがーがーぴーぴーうるさかったんで、外してたんです。――― あ、あった」
結局イヤーカフスを発掘したのは、まったく別のポケットからだった。見つけるまでに、ずいぶんといろんなゴミやら食べかすが披露されはしたが。
「スフォルツァ枢機卿猊下がお呼びなんです。応答がないっておっしゃってましたけど、領収書の件で訊きたいことがおありだとか」
「ええっ!? カテリーナさんが!」
アベルは一気に蒼白になる。
「あわわ、どどどどうしましょう、きっとあれのことだぁぁ、エステルさん〜」
「どうしましょうっておっしゃられても、イヤーカフスを外してまでレジーナさんと歓談なさってたのは神父さまですし」
「おお、主よ、エステルさんがなんだか冷たいですぅ」
「そんな、だってあたしは知りませんもの!」
「ああ、エステルさ〜ん、あわれな子羊を見捨てないでください〜」
「情けない声出さないでください! 猊下がお待ちなんですから、早くお行きになればいいじゃありませんか!」
「エステルさんエステルさん、一緒に行ってください、お願いですからあああ」
「やめてください恥ずかしい。いい大人がもう!」
「はぅっ、見捨てないで、行かないでエステルさ〜ん」
アベルの悲鳴が中庭に響いてゆく。
――― ふたりの姿をちらほらと隠す新緑の木々の葉の上から、その様子を静かに見つめるひとつの赤い姿があった。
彼女は窓越しに見えるアベルとエステルに、動きを忘れたかのようにじっと立ちつくし、ただただ複雑な眼差しを落としている。
それは、なかなかやってこないアベルに痺れをきらして廊下に出た、カテリーナだった―――。
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