「神父さま、待ってください」
アベルの横を歩いていたエステルが、何かに気付いたのか、路地に目をやり立ち止まる。つられてアベルも影の濃い路地を見た。
小さな箱が路地の中ほど、店の裏口付近に置いてあった。そこから覗く、小さな毛玉。
「猫ですわ」
エステルは箱に駆け寄り、一匹の灰色がかった仔猫を抱き上げた。みいみいと仔猫はすがるように鳴く。箱の中を覗くと、そこには他にも猫がいた形跡があった。哀れな灰色仔猫は、捨てられ貰われなかった最後の一匹のようだ。
「しっぽが短い」
おそらく、拾われなかった理由がそれだろう。
エステルは、仔猫を抱き上げたままアベルを見た。
「どうしましょう、神父さま」
「どうしましょうって、ここに置いておくしかないでしょう?」
「そんな」
「飼うつもりだったんで?」
「そういうわけじゃありませんけど」
それでも、いまにも雨が降りそうな空の下、ここに放っておくことはできない。
両手に収まるほどの大きさしかない仔猫は、あまりにも無邪気にエステルに甘えてくる。
こんなにも小さな命を、そのままにはできない。
「どうにかなりませんか?」
「え !?」
必要以上にアベルは驚いた。おや、と思ってよく見ると、きっと本当は端正な顔に、なにやら青ざめたものが。
エステルは、目をぱちくりさせた。
「ナイトロード神父……。もしかして、猫が苦手でらっしゃるんですか?」
「はぅっ! や、やだなぁ、何てことを言うんですか、エステルさんってば〜」
―――目が泳いでいる。
「こんなにもかわいいのに」
エステルは、ひょいと仔猫をアベルの視線まで上げた。息を呑んで固まるアベル。
「……えへ」
精一杯のアベルの笑いも、強がりにしか見えなかった。そんなアベルの様子は、なんだかかわいらしい。
「猫が苦手だなんて、意外ですわ」
「苦手、というわけじゃぁないんですがね。そのナンと言いますか……」
みゃあ。
アベルの必死の言い訳を、仔猫がさえぎった。びくついたアベルを横に、どうしたの? とエステルが訊く。仔猫はまたみゃあと鳴いた。
「お腹が空いているのかしら」
エステルは手のひらに仔猫を乗せたまま、ひとりごちる。
「神父さま、さっきのあのお店でミルクを買ってきてくださいません?」
「ミルク? もしかしてこの毛玉くんに差し上げるんで?」
「当たり前じゃないですか。早くお願いします」
アベルは浮かない顔をする。
「何ですかその不満そうな顔は。だったらご自分のぶんも買ってくればいいじゃありませんか」
「そうしたいのはやまやまなんですが……」
歯切れの悪いアベルに、エステルは気付く。時期柄、いまのアベルの懐は非常に寒いはず。
エステルは溜息をつき、アベルに自分の財布を渡した。
「余計なものは買わないでくださいませね」
「おお! 主よ、天から恵みがわたくしのもとへ!」
「ナイトロード神父!」
目を輝かせて天を仰いだアベルの足を、エステルは思いきり踏みつけた。
アベルはカエルのような悲鳴を上げ、判りましたと逃げるように路地を出た。
「待っててね。もうすぐごはんがくるからね」
仔猫を胸に抱くと、前足が尼僧服にちょんとかかった。深い青色にも見える大きな瞳をエステルに向け、仔猫は甘えて鳴く。
「よしよし。おまえにも早く貰い手が見つかるといいのに……」
必ずしも仔猫を引き取ることができないわけではないが、手続きや審査は煩雑だろうし、職務上、充分面倒を見られない。エステルは、仔猫に優しい貰い手が見つかるよう、神に祈った。
しばらくすると、アベルが足音を忍ばせて戻ってきた。ミルク以外のものも抱えている。
「怒られるかと思ったんですが、ミルクを入れるお皿と、あと傘も買ってしまいました」
アベルの手には、小さなお皿と子供用の赤色の傘があった。
エステルは、まじまじとアベルを見た。
「なな、なんでしょうか、その顔は?」
いたずらを見咎められた子供のように、アベルは戸惑いを見せた。エステルは小さく頭を振って、アベルに小皿にミルクを注いでもらうよう頼んだ。
「神父さまが、そこまで考えてくださるとは思っていなかったから……」
見直しました。という言葉は、胸にとどめた。だがアベルがいやぁ照れますねえと勝手に照れてるのを見ると、自分に都合のいいことは言葉にしなくても判るらしい。
仔猫は不器用ながらも、アベルの用意したミルクを舐めだした。
アベルとエステルは、どちらともなくその様子を見守った。
「よっぽどお腹が空いてたんでしょうねぇ。すごい飲みっぷり。おやま、酒飲みに聞こえちまいますね」
いつもながら、アベルはわけの判らないことを言う。
エステルは聞こえなかったふりをして、仔猫の邪魔にならないようそっと傘を広げ、小箱に差しかけた。
「早く貰い手が見つかればいいけど」
「だったら、こんな路地じゃなくて、表通りに出してあげたらどうです?」
「うん……」
エステルは、仔猫に眼差しをやりながら、小さく答える。そんなエステルに、アベルは笑んだ。
「そんなにも気になるのなら、飼い主が見つかるまで面倒をみるってのは?」
え? とエステルはアベルを見上げた。腰をかがめたアベルは、エステルのすぐ後ろで彼女と仔猫を見つめている。その目が、エステルにとまる。
「カテリーナさんには適当に言っておけばどーとでもなりますし。なんだか、エステルさんのほうが捨てられた仔猫みたいな目をしてますよ」
「神父さま……」
「任せてください。カテリーナさんたちが文句言おうと、そのくらい、へともないです」
エステルの顔が、ぱっと輝いた。
「ありがとうございます、神父さま!」
エステルはたまらずアベルに抱きつた。アベルは驚くが役得かな、やさしくエステルの背中に手をやった。
空はどんより重たい色をしている。
雨を間近にし、町ゆくひとたちの足は速い。その中を、黒い僧服と白の尼僧服のふたりが、赤い傘を手に歩いていた。
もちろん尼僧服の胸には、灰色の仔猫が抱かれている。
「それにしても意外でした。神父さまがスフォルツァ枢機卿猊下を説き伏せると言ってくださるだなんて」
「そおですかあ?」
「そうですよ。あ、そういえばいま思い出しました。神父さま、お財布返してくださいません?」
「え? いいいま、さささ、財布、とおっしゃいましたですかい、エステルさん?」
途端に挙動不審になるアベル。
エステルはいまになってはっとした。
「ナイトロード神父! もしかしてあなた、あなたもしかして、お財布にあったお金全部……」
「ええ? あはは〜、ヤですよー、エステルさん。全部使っちゃうわけないじゃないですかァ〜」
と、あさってのほうを向かれたまま渡された財布を改めると、僅かばかりの小銭しか残っていない。
全財産でなかったとはいえ、この使われかたはあまりにも豪快すぎた。
「ナイトロード神父……、何か、買い食いなさいましたわね……」
ミルクと小皿、子供用の傘だけでここまでなくなるとは思えない。アベルが欲しいとにおわせた自分のミルクぶんを差し引いたとしても、残金は少なすぎた。
「あ、あの、あのですね。確か、パンをひとつ、と……」
エステルはアベルを睨み上げる。アベルはしゅんと観念した。
「すみません……。パンを3つと、ミルクを2本、チョコレートと飴も、買わせていただきました……」
予測がつかないわけではなかったのに、エステルは彼の言葉に声も出ない。カテリーナを説き伏せると言ったのは、何てことはない、たんなる埋め合わせでしかなかったのだ。
「あの、……エステルさん?」
「―――わたしの莫迦」
俯いてわななくエステルの声は、アベルではなく自身を責めていた。
「この間抜けな神父にまともなおつかいができるわけがないのに、どうして頼んじゃったんだろう」
「自分を責めないで」
「あなたがそう言いますかっ」
財布ごとアベルに渡した自分が情けなかった。
給料前に余ったお金で、豪勢に食事をしようと思っていたのに。すべてが儚く散ってしまった。
「ああもう、自分が情けない……」
そうエステルがこぼしたとき、
みゃうん。
胸の中で、小さな仔猫が鳴いた。
その声は、一触即発のふたりの緊張を一瞬に解いてしまう。
みゃうん。
けんかしないで。そう訴えるかのように、仔猫はエステルとアベルに向かって鳴いた。
エステルは思わず笑んだ。
「判ったわよ、仔猫ちゃん。喧嘩はしませんから。ね、神父さま」
言ってアベルを見上げるエステルの目は、軽く怒りをはらんでいたものの、休戦を持ちかけるものだった。
苦手な仔猫に救われ、アベルはほっと胸をなでおろす。
「そうですよ。喧嘩はしないが一番ですとも」
「……ねえ神父さま」
「なんでしょう?」
「あたし、ずっと抱いてて手が疲れましたの。代わりにこの子、お願いしてもかまいませんよね?」
「へっ」
アベルの返事を待たず、エステルはアベルの胸元に、ぐいっと仔猫を差し出した。有無を言わさずアベルに抱かせる。
アベルの肩がびくっとこわばった。ついでに顔も、みごとに引きつっている。
「落とさないでくださいませね。あら、なついてますよ。嬉しそう」
「そそそそそうですかァ? ああ主よ、手の中でなんだか毛玉があったかいですぅぅ」
声が震えている。
そんなアベルに、ちょっといじわるかしらと思いながらも、エステルは帰り道、ずっとアベルに仔猫を抱いてもらうことにした。
(このくらい、いいわよね)
アベルと仔猫の組み合わせは、意外と似合っていたりした。
|
|