サンタは来たか?
〜トリニティ・ブラッド〜
 
    
 それを見て、エステルは困惑してしまった。
 彼女を困らせているモノ。
 それは、バザーで売れ残ってしまったサンタの衣装である。しかも、ミニスカート。
 12/24に開かれたクリスマスバザーが無事に終わり、片付けを始めたエステルたちである。
 サンタの衣装なので時期柄すぐ売れてしまうだろうと思っていたのだが、「ミニスカートは寒いから」「過激ねえ」「教会のバザーにはふさわしくないわ」などといろんな理由をつけられ、結局最後まで残ってしまった。
 もちろん、バザーの出品物としてこの衣装を見つけたときから、エステルに思うところがないわけではなかった。商品を整えるふりをしてさりげなくサイズを確かめ、胸の内でガッツポーズをしてみたり。
(でも……。やっぱり、恥ずかしいし……)
 立場からいっても、エステルが引き取るのは障りがある。
 障りも抵抗もあるが、頭をよぎるのはいつぞやのアベルの姿だった。
 数週間前、まさにこの衣装を着た売り子を街で見かけて、エステルにも似合うと必死にアピールしていた。
 アベルが用意してくれるなら着ても構わないと言ってしまったため、あれ以降彼の様子は忙しなかったのだが、最近は金策に疲れ果てたのか、覇気がなかった。
 赤い衣装を手にし、エステルは見つめるでもなく手元に視線を落としていた。
「いいかな?」
 頭上からかけられた声に、思考を泳がせていたエステルは突然現実に引き戻された。
「博士……?」
 サンタの衣装を挟んだ向こうに、教授が立っていた。
 教授は、パイプを持った手で衣装を示す。
「売れ残ったようだね」
「ええ。ちょっと、バザーに出すには派手すぎたみたいです」
「『派手』ねえ。ま、そういう言い方もあるかな」
 教授は喉の奥で笑った。
「 ――― 気になってるみたいだが?」
「え!? その、何をです?」
 核心をつかれてどきりとしたが、素知らぬ表情を作る。当然、そんな工作が教授に通用するはずがない。
「この衣装だよ」
「そんなこと、ないですよ? 派手ですし、着たら寒いじゃないですか。誰かに差し上げるにも、不都合が多いかなあ、なんて思ってただけですよ」
「はは。そうだね。確かに。 ――― なら、わたしが買おう。できれば半値で」
「えぇ?」
 目を丸くしたエステルに、教授はほんのりした笑顔を浮かべながらも大真面目に頷いて見せた。
「できれば、そのまた半値だとありがたいのだが?」
「あの。博士、その……、伺ってもよろしいでしょうか」
「何なりと」
「その、失礼ですけど、あのう、こういった趣味が、おありなんですか……? だとしたら、ちょっと、困ってしまうんですが……」
 教授は一瞬呆け、声をあげて笑い出した。
 何事かと片付けを進める他の者たちがこちらを見たが、Axと判ると、すぐに自分の仕事に戻っていった。
「シスター・エステル、君、なかなか鋭い質問をしてくるね」
「あの、博士の趣味嗜好について何かを申し上げるつもりはないんですけど」
「はっはっは! いや何、本気で言ってるのなら、またこれも面白い」
 そこまで言われ、ようやくエステルもはっとする。
「あっ! もっ、申し訳ありません! あたし、なんてこと!」
 自分の失言に、顔が真っ赤になる。
 何を考えていたのだろう?
 教授に対して、あまりにも失礼な態度だった。時折アブナイ趣味のひとがいるからとはいっても、教授をそう見てしまったなんて。
「いや。その慎重さは、きみの美徳のひとつでもある」
 教授のおおらかさに、命拾いをしたエステル。内心、これこそがクリスマスプレゼントかもしれないと神に感謝さえした。
「では身の潔白のために言わねばならんな。今夜、ミニスカートのサンタが出る催しがあってね。なのに衣装がひとりぶんないと言うじゃないか。だからこうしてわたしが探しまわる羽目になったというわけだ」
「そう……だったんですか。あの、本当に、申し訳ありませんでした。あたしったら失礼なことを」
「気にしないでくれたまえ」
「でも。本当に。あたし、本当にバカなこと申し上げてしまって」
 恥ずかしさに、声も小さくなってしまう。
「ふむ。ではこうしよう」
「はい」
 教授の提案に、エステルは叱られる覚悟を決める。
「この衣装を、譲ってくれないか?」
「譲る、ですか?」
「ああ。そこまで気に病むのなら、半値の半値の代金をわたしに代わって君が支払う。そうすれば、処分に困っていたこの衣装も喜ぶだろう?」
「ええ、それは」
「主催者側も、無料で手に入ったことを喜ぶよ。今夜の催しも、予定通り始められるだろう」
「 ――― 判りました。この代金、あたしが払っておきますわ。それであたしの非礼も許していただけるのなら、助かりますし」
「では、商談成立」
 にっこりと教授は満足げに笑んだ。
「ありがとうございます。主催者さんに、うまくいくようわたしも祈っていますと、伝えてくださいませ」
「ああ、必ず。では急ぐのでね」
 そう言って、教授は扉の向こうへ消えていった。
 急に寂しくなった手元に、エステルの胸は複雑だった。
(本当は、神父さまの代わりに博士が買いに来たと思ったんだけどな……)
 都合のよすぎる期待だった。
 クリスマスには、さまざまな団体がいろいろな劇や見世物をする。教授は、そんな誰かに頼まれていたのだろう。サンタの衣装を手にした彼は、ほっとしていたようにも見えた。
 あの衣装が売れてしまって名残惜しくはあったが、これで気持ちにけりがついた。
(ごめんね、神父アベル)
 この場にはいないのっぽの貧乏神父に、エステルは小さく謝った。
 
 クリスマスのミサも終わり、遅い時間にエステルは尼僧寮に戻った。
 すると、誰が置いたのか、自室の扉前に何やら包みがある。
 丁寧にラッピングされたそれは、持ってみると思ったよりも軽い。メッセージカードも添えられていた。
 
  〜トナカイにかける言葉は『聖夜民俗辞典第6版』345ページ第3項目を参照のこと〜
 
 エステルは目を見張った。
 これはたぶん、教授の筆跡だ。
 どういうことだろう?
 エステルは淡い期待を覚え、急いで部屋に入った。
 違う違うと自分に言い聞かせながらも、もどかしく包みを開ける。
 けれどどこかで、そうかもしれないと思っていた。
 ――― サンタクロースの衣装。
(ワーズワース博士……!)
 それはまさしく、夕方エステルが教授に手渡した衣装だった。
(催しに使うっておっしゃってたけど、……催し?)
 エステルはスカートを手に取りながら、教授の言葉を思い出す。
 『今夜、ミニスカートのサンタが出る催しがあってね。なのに衣装がひとりぶんないと言うじゃないか ――― 』
 催しといっても、さまざまなものがある。
 うがったとらえ方をすれば、教授は間違ったことは言っていない。
(ふたりだけのミサも、言いようによっては催しになるのかもしれないし……。ふたりだけの……? まさか)
 自惚れてはいけないと戒める自分がいる。
(でも……)
 教授の後ろで、アベルが見え隠れしている気も、しないでもない。
 教授の筆跡に似せた、誰かのいたずらかもしれないし、本物なのかもしれない。
 決心がつかない。
 行動すべきか無視するべきか。
 悩んで悩んで寝台の上にスカートを置いたとき、ふとそのポケットのあたりのふくらみが気になった。
 何だろうとポケットを探ってみると、そこから丸い飴玉が出てきた。
 ご丁寧にも、クリスマス模様の包みである。
 どこか不器用なその包み方に、エステルは息を呑んでサンタの衣装に目を戻す。
 思わず胸に手がゆき、すがるように、窓の外を確認する。
 半分にしか満ちていない月が、雲の間に隠れようとしている。冬の冷たさがすべての音を凍らせたような、あまりにも静かな夜だった。
 聖夜民俗辞典は、おそらく国務聖省の図書室にある。
 この時間でも出入りはできるだろうが、でも、本当に……?
 エステルは、サンタの衣装に手を伸ばし、その感触に問う。
 ――― たぶん、アベルは喜ぶだろう。
 今日はクリスマスイブ。
 この夜に、主は生まれたのだ。
(誰かに喜んでもらうことは、決して責められることじゃありませんよね?)
 エステルは十字をきってそう祈ると、サンタの衣装を手に取った。
 
 クリスマスが冬でよかったと神に感謝しながら、エステルは国務聖省に足を踏み入れた。
 幸運なことに、ほとんど誰とも会わなかった。
 やましいことをしているわけではないが、なにぶん気持ちに後ろめたさがあるので、外套をきつく着込んだまま、こそこそとエステルは図書室へと急ぐ。
 あたりを見まわし、廊下にも中にも誰もいないのを確かめて図書室の扉を閉めた。
 紙の傷みを防ぐため、図書室の窓は小さい。厚いブラインドも下りてはいるが、できるだけ明かりを小さくさせて、エステルは聖夜民俗辞典を棚に探した。
「ええと……聖……聖……。……あった。第6版」
 エステルは気をつけて聖夜民俗辞典第6版を取り出した。
 近くの机に重たいそれを置いて、ページを繰る。
 345ページ。その第3項目に、教授の示したヒントが書いてあるのだ。おそらく、アベルが待っているだろう場所が。
 教授が考えたのだとしたら、それはきっとロマンチックな場所なのだろう。
 冷たく冷えきった指で、ページをめくり、その項目を探し ――― 見つけた。
 エステルは、思わず言葉を失う。
 そこに書いてあったのは、
  ”Merry Christmas (Hilaris Sarcalogos) ―― クリスマスの時期に使われる挨拶。大災厄以前より使われている。一説によると、恋人同士の間では「メリクリ」と使われたこともあったようである。”
 という、たった数行の単語の並び。
「これが、トナカイへの言葉……?」
 メリークリスマスがアベルの待つ場所を示していると?
 肩透かしを食らった気分だった。
 あきれを通り越し、腹立たしささえ感じた。
 やはりいたずらだったのか。
 期待してここに来た自分が情けなくもあった。
「メリークリスマスに、つられて来たなんて」
 目に見えて、エステルの肩はがっくりと落ちていた。
「何がメリークリスマスよ、トナカイなんて」
「メリークリスマス」
 いきなり背後から聞こえてきた声に、エステルはぎょっとした。
 誰もいないのを確認したのに!
「誰!!」
 とっさにエステルは防御姿勢をとった。
 しかし振り返ったそこに見たのは、何故か頭に大きな角のようなものを生やしたアベルだった。
 声にならない悲鳴を、エステルはあげる。
 むしろいっそ、赤の他人であればよかったのに。
 書棚に背を預けながら、無意識にエステルは外套の前をかきあわせる。
 アベルは立ち並ぶ棚の間から、静かな夜の空気とともにするりと現れた。
「そんなにも驚かなくても」
 角を生やしたアベルは、しょんぼりしている。
「誰もいないと思ってたから……」
 エステルの心臓は、これ以上ないくらい激しく胸で暴れている。
「?」
 弱い明かりのもとでよくよく見ると、彼の鼻の頭が赤く塗られていた。
 いまにも飛び出てきそうな心臓と、胸の奥から生まれる甘やかな想いを抑えながら、エステルはアベルの奇妙な変装を訊いた。
「その、格好は、どうなさったんですか、って、訊いても構いません?」
「教授が、トナカイはこういうものだって言うんで」
「……」
 大きな角をトナカイが持っていることは写真で見たことがあるが、赤い鼻ではなかった気がする。
 教授なりのお遊びなのだろうか。
 だが、今回の件には、やはり教授が絡んでいたのだ。
「あの、神父さま」
「はい」
「博士は、神父さまに何とおっしゃったんです?」
 アベルはすっと真面目な表情になってエステルを見つめた。
「 ――― サンタクロースが、図書室でトナカイを待っている、と」
 不覚にも、エステルの胸が震えた。
 目を合わせていられなくなり、ふいと視線をそらす。
「大切なものをサンタクロースに贈ると、必ず応えてくれるとも」
「……。もしかしてそれって、……これのことです?」
 エステルはひっかかり、外套のポケットに入れていた例の飴玉を取り出した。
 悲しいかな、同じ真剣な眼差しのままでアベルははいと答えた。
 せっかくの濃密になりかけた空気が、エステルの中でがらがらと崩れ落ちた。
(あたしって、……なんか、ものすごく人生を間違いそうな気がする)
 クリスマスイブの夜。ふたりきりの図書室。淡い明かり。舞台が揃っているからこそ、泣くに泣けない。
 だが、聖書にも「地とそこに満ちているものは主のもの」とある。
 アベルにとっては、このたったひとつの飴玉も大切なものなのだ。
(あたしの尺度だけで、神父さまを測ってはいけないんだわ)
 半ば強引にそう言い聞かせるエステルへ、アベルは歩を進めた。
「わたしは、サンタクロースに、逢えるのでしょうか?」
「え」
 アベルは、探るようにエステルの外套を見つめる。
 逃れられない眼差しに、エステルは急に恥ずかしくなる。
 普段のふざけたアベルの姿はどこにもない。その格好を除けば。
「あの……」
「ここに来てくれたということは、期待してもいいと、思っていいんですよね?」
「あの……」
 また一歩、アベルの足がエステルに近付く。
「その外套の下」
「あの……!」
 しどろもどろになったエステルは、言葉が見つからない。
 アベルは机をまわり込んで、エステルの前に立ちふさがった。一瞬迷ったような素振りの後、彼女に、伸びる手。
「あの! 判りましたから、ちょっと、向こう向いててください!!」
 さすがのエステルも、腕を突っ張ってアベルを遮った。
 逃げるようにアベルに背を向け、顔に上った血を両手で押さえた。
 アベルの手が伸びてきたとき、彼が ――― 男に見えた。
 その瞬間、怖ろしさを覚えたことに、エステルは戸惑う。
 自分がしてきたこと。
 ものすごく、罪深いのでは?
(どうしよう……! 主よ、どうすればいいんでしょう、お助けください!)
 怖くて、外套の上から抱きしめる自分の腕を外せない。
「エステルさん……」
 戸惑うエステルの背中で、アベルがこぼす。
 たまらず肩を跳ねてしまった彼女に、思いがけない言葉がかかる。
「 ――― すみません」
(……え?)
「浮かれすぎました。そのままで、構いませんから。だから、怖がらないでください」
 目だけで振り返ると、叱られた子供のような顔のアベルがいた。
「こうしてこっそり逢えただけで、満足しなくちゃいけないのに」
 寂しげな笑顔があった。
「せっかくのクリスマスイブを怖がらせてしまうなんて、本当に、ごめんなさいです」
「神父さま……」
 アベルの顔は、本当に悲しげで切なかった。
 エステルは首を振った。
「あたし……、神父さまのこと、怖くなんて」
「無理言っちゃいけません」
 彼女の怖れをアベルはずばり見抜く。
 エステルは、口をつぐんだ。
 クルースニク02となったアベルは大丈夫なのに、ただ自分の前に立っただけの彼を怖ろしいと思うだなんて。
 エステルはそっと目を閉じ、自分の心を見つめてみる。
(あたしは、神父さまの何を怖いと思ったの?)
 ひたと注がれる彼の眼差し。エステルを女性と見る彼の気持ち。
 それから続いていくだろう、展開。
(あたしが……、あたしが怖いと思ったのは、そう。神父さまじゃない)
 エステルが怖れたもの。それは、時間だった。
 アベルと過ごすだろう、未だ経験したことのない時間。
 未知だからこそ、怖れを感じたのだ。
(でも、神父さまと一緒なら、 ――― 一緒だから、怖くなんかない)
 エステルはゆっくりと、伏せていたまぶたを上げた。
 アベルはまだ、そこにいてくれた。
「神父さまのこと、ちっとも、怖くなんか、ないです」
 自然と笑顔がこぼれた。
 アベルの表情が揺れる。
「それもちょっと、複雑ですね」
 けれど、ほっとしたものが声にはあった。
 そのままふたりは、数瞬見つめあう。
「あの。少しだけ、向こう向いててください」
 エステルは慣れた様子で ―― けれどどこかぶっきらぼうに、アベルに指示を出した。アベルもすべて心得たように、素直に従う。
「トナカイさんはサンタさんの言うことを聞かなくっちゃね」
 なんてことをうきうき呟きながら。
 アベルがちゃんと後ろを向いたことを確認すると、エステルは気持ちを落ち着けた。
 意を決し、エステルは外套のボタンに手をかけ、ひとつずつ外していった。
 すべてを外し終え、もう一度アベルを確認する。
 明らかに、その背中は期待に躍っている。
(い、いくわよ、あたし!)
 エステルは、外套を思いきって脱いだ。空気の冷たさが、肌にしみた。
 息を整え、背中を向けるトナカイ神父の名の形に、エステルの唇が動く。
 しかし、外套を机に置いたその音に、彼は名を呼ばれる前に振り返ってしまう。
「神父さま!」
 声をひそめて怒鳴るエステル。
 だが、アベルにその声は届かなかった。
 虚をつかれたように表情を忘れた彼の顔。天上から舞い降りた天使を目にしたかのような、ほけっと眩しさに心を奪われている。
 アベルの目に映っているのは、ただひたすらにエステル・ミニスカサンタだった。
 白いファーで縁取りされた膝上20cmの赤いワンピース。丈の短い上着も同じく赤いウール地で、それは大きく開いたワンピースの胸元をかえって強調させていた。
 ここに白いファーのチョーカーと赤いブーツ、サンタの帽子でもあれば、完璧だったのだろうが、それはバザーの売れ残り。目をつぶるしかない。
 おもむろにアベルは、右手を自分の右耳あたりに、左手を腰に当てて身体を横に傾けて見せた。
 誘うようなその動きに、エステルもなんとなく見習ってみる。
 すると今度は、指を組んだ腕を下に下ろして、顔を上げたまま礼をするように軽く屈んだ。
 それもまたなんとなく真似てみたが、大きく開いた胸元がひどく心もとない。
 そのまま、声すらも発さず自分を見つめるアベルに、エステルはだんだん気まずくなって、姿勢を解いた。
「何させるんですか、もう」
 アベルはぼんやり夢心地で、ひとりポーズを取っている。
「……何か、おっしゃってくださいませんか?」
「え! あ……と。あの、すごく、似合います」
 意識をどこに飛ばしていたのか、アベルは慌てる。
「本当ですか?」
「本当ですとも! みんなに自慢したいくらいです! でも……」
 言葉を切ったアベルは顔を引き締めた。口を閉ざし、再びエステルのもとに近付く。
 今度は、エステルは後ずさりもしなければ怖れもなかった。
 恥ずかしさだけはあったが、目の前にやってきた彼を受け入れることができた。
「独占したい。誰にも、見せたくありません」
 アベルの手が、エステルの頬へと伸びた。
「メリークリスマス。わたしのサンタさん」
「メリークリスマス、トナカイさん」
 その手を感じながら、エステルは教授からの言葉を唇に乗せる。
 自分の格好を思い出したのか、アベルは微笑んだ。
 頬の手は、そのままエステルの頭を支えた。
「憐れなトナカイが、プレゼントをもらってもいいですか?」
「え……?」
 静かに近付く、アベルの顔。
 エステルは、拒絶をしなかった。
 そんなふたりの唇が触れ合う、直前 ――― 。
 どさっと何かが落ちる音がした。
 ぎょっとするふたり。
 床に、アベルが頭につけていたトナカイの角をかたどったカチューシャが落ちていた。
 顔を傾けたせいで、外れたのだろう。
 気恥ずかしい空気が流れたが、しかしアベルの手は、エステルに添えられたままだった。
「……トナカイじゃ、なくなってしまいました」
 それは、アベルなりの精一杯の言葉。
 では、何になったんです?
 エステルは眼差しで尋ねた。
「メリクリ。エステルさん」
 囁くように言い、アベルはエステルに唇を寄せた。
 とろけるような、優しい感触。
「すごく、かわいいです」
 ほんの僅か、唇を離してアベルは言った。
 先程読んだばかりの一文が、エステルの頭に浮かぶ。
 ――― 恋人同士の間では「メリクリ」と使われたこともあったようである。
 至近距離のアベルの顔に、見ているこっちがうっとりと幸せに満たされる。
 きっと彼も、あの項目を読んだのだろう。
「メリクリ。神父さま」
 恥ずかしさと嬉しさで、エステルははにかんで答えた。
「わたしの人生の中で、一番素敵なプレゼントをもらってしまいました」
「奪った、の間違いなんじゃないですか?」
「いいえ。エステルさんから、もらったんです」
 言うそばから、口付けを落とす。
「ね? 怒られないですし」
「何おっしゃってるんですか。……あら?」
 いつの間にか抱き寄せられていたエステルは、ふと気付いた。
 アベルの鼻は赤く塗られていた。
 けれど、その色が伸びているような……。
「し、神父さま、血です!」
 エステルは慌てて身を引いた。
 だがアベルは、エステルの言うことがすぐには判らず、彼女が身をそらしたことにショックを示した。
「ほら、鼻血ですよ、神父さま!」
「へ?」
 自分の鼻を指差して慌てるエステルの様子に、ようやくアベルは事態に気付いたようだった。
「鼻血?」
 おそるおそる鼻に指をやったアベルは、そこにあるはずのない感触に顔をこわばらせた。
「うをう!」
「ハンカチ、ハンカチ……、ああ、置いてきちゃった!」
 少しのつもりで図書室に忍び込んだのだ。部屋の鍵以外身のまわりのものなど持ってきていない。
「硬直してないで、鼻をつまんでてください。何かポケットに入ってません? 神父さま、いつもありえないものが入ってたりしますよね?」
 勝手知ったるなんとやらではないが、エステルは無礼を承知でアベルのポケットを探らせてもらう。
 しかし、エステルの言葉どおり、ボールや虫眼鏡などといったありえないものが出てきても、あってよさそうなハンカチやらティッシュの類がない。
「……これだわ!」
 ポケットをそれでも探していたエステルは、予想していたものを探し当てた。
 念のため、明かりのもとでそれを広げて確かめる。
「よし! 神父さま、これを鼻に詰めてください」
 きびきびとした声で、アベルを見上げるエステル。
「ちょっと硬いですけど、揉めば柔らかくなります。……はい」
「あどぅ、つだびでぃとえあ、なんでとうか?」
「領収証です。日付が9月と10月なんで、いいですよね?」
「えええ〜!?」
「大きな声、出さないでくださいませ。ここにいると知られたら、ただじゃ済まないんですから」
「ううぅぅ、でぼ……」
「ほら。ご自分でなさらないのなら、あたしがぎゅぅぅっと押しこみますよ?」
「いえっ、そであごあんべんを」
 アベルは泣きそうな顔で、揉みしだいた領収証を受け取った。
 領収証よさようならで泣きたいのか、むふふんムードさようならで悲しいのかは本人のみぞ知る。
 わななく手で、アベルは両方の鼻に、領収証を詰めた。
 せっかくの黙っていれば男前も、みごとに玉砕された風采となったアベルである。
 しかし、それでもそれなりに見えてしまうから不思議である。
「ほら。これで手と、鼻の下も拭いてください」
「こであ、いつどでょうじゅうじょうでじょうが」
「9月のです。まったく、ちゃんとこういうものを提出していれば、もう少しは懐が潤うと思うんですけど。まあおかげで、今日は助かったんですけど」
「ついばてん」
「謝らないでください」
 鼻に詰め物をしてちゃんと話せないアベルをしっかり理解できるエステルは、やはりただものではない。
 もちろん当人は、そんなこと気付いてもいないが。
「……くしゅん」
 アベルの鼻血騒動がひと段落ついたせいだろうか、エステルはくしゃみをしてしまった。
「はう! えすてうたん。だいどうぶでうか!?」
「ええ。こんな格好で街頭にいたあのひとたち、実はすごかったんですね。室内にいるのに寒いもの」
「かでへくとえけばてん、はあくうあぎをきてうだあい!」
 わたわたと取り乱すアベル。
 滑稽である。
「大丈夫ですよ。でも、着させてもらいますね」
 エステルは机に置いていた外套に袖を通した。たったそれだけなのに、ほっとするほど暖かい。
「ぼういちばいあでぃばうお」
「もう一枚?」
 エステルはきょとんとする。
 サンタの衣装を隠すように羽織っていたのは、この外套1枚だけである。
 すると、背中から覆うように、アベルの腕が彼女を包みこんだ。
(神父さま……!?)
 胸が、熱くなる。
 アベルの手は領収証で拭われてはいたが、それでもエステルの外套を汚さないよう、慎重に重ねられていた。
 背中から、アベルのぬくもりが流れてくる。
「ちょっどおぼだいかぼじでばえんが、がばんじでぐだはいで?」
「重たくなんて……」
 ないです。
 アベルの重たさは、とても愛しくて、暖かいから……。
 耳元に寄せられているアベルの唇から、甘い息遣いが繰り返されている。
 くすぐったくて、すごく優しい。
 ちょっとしたハプニングはあったけれど、アベルが言うように、このクリスマスは、エステルにとっても最高のクリスマスだった。
(それもきっと、あたしたちらしいのかもしれないな)
 そう思うと、すべてが愛しくなってきた。
(メリークリスマス、博士。素敵なプレゼントを、ありがとうございます)
 いつも見守ってくれる紳士に、エステルは感謝をささげた。
「……?」
 しばらくそのままの格好で幸せをかみしめていたエステルだったが、背中にかかる重みが、少し増した気がした。
「……神父さま?」
 耳元の呼吸も、規則的だ。
「ねえ、神父さま?」
「……」
 返事が、ない。
 エステルはイヤな予感がし、ついつい口調がきつくなった。
「神父さま? もしかして、眠ってらっしゃるんですか?」
――― ふたりの聖夜は、やはり波乱万丈な幕開けであった。
 
 
 

 ごあんない365のお題         目次


       +++ 365のお題からは…… 

          45.残った物
          189.誰もいない
          297.メッセージ



          ……を使いました。 +++



     *あとがき*

 『サンタは来るか?』の続編です。これだけで読んでも、判る……かな??
 それにしても、……非常に恥ずかしかったです。
 やっぱりわたしはラブシーンは苦手みたい。
 ああ、恥ずかしい〜!
 (でも、結局こんなふたりです。)
 そうだエステルさん。用意は周到に。
 
 
 
高萩ともか・作